第1話:エリスという名の不和の女神が、僕の部屋に来た夜
今回のテーマは「球体関節人形」と「ヤンデレ」です。
一目惚れして買った人形を捨ててしまった大学生に降りかかる、粘着質な愛と恐怖の夜。
物理的に襲いくる美少女人形 VS 煙管をくゆらすイケメン陰陽師。
深夜の公道でのカーチェイスや異能バトルもあります。
※身体が人形に変化する描写や、微グロ表現がありますのでご注意ください。
都会の夜は、決して眠らない獣のようだ。ネオンの瞬きは呼吸のように明滅し、アスファルトを這う車のライトは血管を流れる汚れた血のようにも見える。
僕、神崎 蓮、二十一歳。どこにでもいる平凡な大学生だ。少なくとも、あの日まではそうだった。大学近くの古いマンションの一室、そこが僕の城であり、そして今は、逃げ場のない檻となってしまった場所だ。
あの日、僕は引き寄せられるようにその店に入った。裏通りの、湿った路地の奥。古びたアンティークショップのショーウィンドウ越しに、彼女と目が合ったのだ。
彼女は、硝子の箱の中に鎮座していた。透き通るような白い肌、深淵を湛えた碧眼、そして精巧に作られた球体関節。それはただの人形、いわゆるアートドールだったはずだ。だが、僕には彼女が呼吸をしているように見えた。店主の老婆は、奇妙に歪んだ笑みを浮かべて言った。
「この子は特別だよ。前の持ち主……いや、作った人形師の魂が、少しばかり濃く残っているかもしれないね」
僕は迷わず彼女を買い取った。名前はエリスと名付けた。ギリシャ神話の不和の女神。なぜそんな不吉な名を思いついたのか、今となっては自分でも分からない。ただ、その美しさが、どこか破滅的な予感を孕んでいたからかもしれない。
部屋に持ち帰り、僕はエリスを勉強机の横、一番目立つ場所に飾った。ゴシック調の黒いレースのドレスは、彼女の白い肌を際立たせ、その無機質な美しさは、僕の殺風景な部屋を一瞬で異界へと変えた。
最初のうちは、ただの鑑賞対象だった。だが、独り暮らしの孤独は、次第に僕の理性を蝕んでいったのかもしれない。僕はエリスに話しかけるようになった。
「今日は講義がつまらなかったよ」
「バイトで客に怒鳴られたんだ」
エリスは何も答えない。ただ、その碧い瞳で僕を見つめ返すだけだ。しかし、その沈黙こそが、僕にとっては最も心地よい慰めだった。人間関係の煩わしさも、社会の理不尽さも、彼女の静謐な美しさの前では霧散した。
一ヶ月が過ぎた頃だろうか。些細な違和感が、僕の日常に黒い染みを作り始めた。
ある夜、僕は確かにエリスの顔を窓の方に向けて寝たはずだった。しかし翌朝、彼女は僕のベッドの方を向いていた。最初は自分の記憶違いだと思った。あるいは、振動で動いたのかもしれないと。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
大学から帰ると、エリスの腕の位置が変わっている。指の角度が違う。首の傾きが、昨夜よりも深くなっている。微細な変化だが、毎日彼女を見つめ続けてきた僕には、それが明確な「意志」を持った動きに見えてならなかった。
「エリス……動いているのか?」
僕は震える声で問いかけた。もちろん、返事はない。ただ、部屋の空気が以前よりも重く、ねっとりと肌に纏わりつくような感覚を覚えた。
ある深夜、僕は喉の渇きで目を覚ました。洗面所へ向かい、顔を洗う。冷たい水が火照った肌を冷やす。タオルで顔を拭き、ふと鏡を見た瞬間、心臓が凍りついた。
背後の開け放したドアの隙間。暗闇の中に、白いものが浮かんでいる。
エリスだ。
彼女は僕の部屋にいたはずだ。机の上に座らせていたはずだ。それなのに、なぜ廊下にいる? なぜ、僕を見ている?
恐怖で身体がすくむ。振り返ろうとするが、首が動かない。金縛りではない。本能が、振り返ってはいけないと警鐘を鳴らしているのだ。
鏡の中のエリスが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、口角を上げたように見えた。
『ギ……ギギ……』
静寂を切り裂くような、乾いた音が響く。それは、古い木材が軋むような、あるいは硬質な樹脂が擦れ合うような音。関節が曲がる音だ。
僕は悲鳴を上げそうになるのを必死で堪え、勢いよく振り返った。
そこには何もいなかった。ただ、廊下の闇が口を開けているだけだった。
幻覚だ。疲れが溜まっているんだ。そう自分に言い聞かせ、僕は部屋に戻った。机の上には、エリスが座っていた。いつものように、無表情で、静かに。
だが、僕は気づいてしまった。彼女の足元、黒いドレスの裾に、微かな埃が付着していることに。廊下の埃だ。
翌日、僕はエリスを捨てる決意をした。愛着は恐怖へと反転し、彼女の美しさは今や不吉な呪いの象徴にしか見えなかった。
ゴミ捨て場に彼女を置いたとき、僕は確かに視線を感じた。ゴミ袋越しに、あの碧い瞳が僕を射抜いているような、冷たく、粘着質な視線。
「ごめん……さようなら」
逃げるようにその場を去った。これで終わったはずだった。日常が戻ってくるはずだった。
しかし、本当の悪夢は、ここから始まったのだ。




