第8話:回収者の運命――永遠に続く「掃除」
アパートに帰り着いたのは昼過ぎだった。
築四〇年の木造アパート。
六畳一間の俺の城。
普段なら薄汚く感じるその空間が、今はシェルターのように頼もしく思えた。
リュックを放り出し、シャワーを浴びる。
熱い湯が肌を叩く。
樹海の泥と、冷や汗と、死臭を洗い流す。
石鹸で何度も身体をこすった。
皮膚が赤くなるまで。
「……終わった。これで終わりだ」
俺は鏡の前の自分に言い聞かせた。
借金は返せる。
当面の生活費も確保できた。
もうあんな危険なバイトをする必要はない。
まっとうに就活をして、まっとうな社会人になるんだ。
風呂から上がり、缶ビールを開ける。
冷たい炭酸が喉を刺激し、ようやく生きた心地がした。
布団に潜り込む。
泥のような眠気が襲ってくる。
だが、その眠りは安らかなものではなかった。
夢を見た。
暗い森の中を歩いている夢だ。
足元には無数のロープが蛇のように這い回り、俺の足首に絡みついてくる。
振りほどこうとしても、ロープはどんどん増えていく。
そして、目の前の木に、一人の男がぶら下がっている。
男の顔は、のっぺらぼうだった。
だが、その顔にはマジックで『お前だ』と書かれていた。
「うわぁっ!!」
俺は叫んで飛び起きた。
心臓が早鐘を打っている。
全身汗びっしょりだ。
部屋の中は暗くなっていた。
いつの間にか夜になっていたらしい。
時計を見ると、深夜二時。
あの樹海で、ロープを切断したのと同時刻だ。
「……夢か……」
荒い息を整える。
水を飲もうと立ち上がり、洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、顔を洗う。
冷たい水が気持ちいい。
顔を上げ、鏡を見る。
そこで、俺は凍りついた。
鏡の中の自分の首。
そこに、**うっすらと赤い線**が入っていた。
最初は寝跡かと思った。
枕の跡がついただけだと。
だが、その線は、首を一周するように綺麗に円を描いていた。
そして、その模様は、まるで縄の編み目のようなギザギザとした形状をしていた。
「……なんだ、これ」
指で触れる。
痛みはない。
だが、微かに熱を持っている。
皮膚の下で、毛細血管がその形に浮き上がっているのだ。
擦ってみる。
消えない。
むしろ、赤みが増したように見える。
背筋に冷たいものが走る。
九条の言葉が蘇る。
『君の身体は、今、馴染もうとしている最中だからね』
馴染む。
俺の肉体が、あのロープの記憶に。
首を吊るという行為の快感と苦痛に、適応しようとしているのか?
俺は鏡から目を逸らした。
見間違いだ。
そう思いたかった。
部屋に戻り、電気をつける。
蛍光灯の白い光が部屋を照らす。
何の変哲もない六畳間。
散らかった雑誌、脱ぎ捨てた服、空のペットボトル。
だが、何かがおかしい。
天井の木目。
壁のシミ。
カーテンのひだ。
それらが、すべて「人の顔」に見える。
シュミラクラ現象。
脳のエラーだ。
分かっている。
だが、その顔たちは、全員が口を大きく開けて、苦しそうに喘いでいる表情をしていた。
そして、その視線は、すべて俺の首元に集中している。
***
「……疲れてるんだ。絶対にそうだ」
俺は布団を頭から被り、外部の情報を遮断しようとした。
目をつぶれば、そこは俺だけの安全地帯だ。
しかし、聴覚までは塞げない。
『……なあ……』
声が聞こえた。
部屋の隅から。
冷蔵庫と壁の隙間あたりから。
『……まだ、苦しいんだ……』
佐久間健一の声ではない。
もっと若い、俺自身の声に似ている。
『……石なんて詰めやがって……』
『……呼吸ができないじゃないか……』
幻聴だ。
脳が見せているエラーだ。
俺は耳を塞ぐ。
だが、声は指の隙間をすり抜けて、鼓膜の内側で響く。
『……次は、解いてくれるよな?』
『……お前の指で、優しく……』
『……あの輪の中に、お前の首を入れてくれれば、石なんていらないんだ……』
布団の中で、俺の身体が震えだす。
止まらない。
歯の根が合わない。
五〇万円が入った封筒が、枕元にある。
その重みが、今はひどく忌まわしく感じる。
あれは報酬ではない。
手付金だ。
俺の人生を、あちら側に売り渡すための契約金だったのだ。
俺は知ってしまった。
一度結ばれた「縁」は、物理的なロープのように簡単には切れないことを。
俺が石を詰めて塞いだあの穴は、俺の心の中に移動してしまったのだ。
ふと、首元の赤い痣が、脈打つように熱くなった。
まるで、そこに見えないロープが巻き付き、ゆっくりと、しかし確実に締め上げているかのように。
俺は布団の隙間から、天井を見上げた。
木目の顔が、ニタリと笑った気がした。
俺の「掃除」は終わっていない。
あるいは、一生終わらないのかもしれない。
俺という人間が、完全に「あちら側」に引きずり込まれて、誰かに回収されるその日まで。
部屋の空気が、樹海のあの湿った臭いに変わっていくのを感じながら、俺は目を閉じた。
闇の中で、カチリ、と高枝切りバサミの音がした。
(完)
お付き合いいただき、本当にありがとうございました!
今回のテーマは「呪いの伝播」と「現代の闇」。
自殺の怨念が残る呪物は、回収した人間を新たな「器」として選びます。真壁の恐怖と絶望が、皆さんの心にも伝わったなら嬉しいです。
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次章の予告
さて、次のお話は、メンヘラの呪いのマネキン人形がテーマです。孤独な青年に取り憑いた、球体関節人形の歪んだ愛と、逃れられない呪いのサイコホラーにご期待ください。
また次の物語でお会いしましょう!




