第7話:呪いの進行――細胞レベルで蝕まれる器
樹海を抜けた時、世界はあまりにも平凡な顔をして俺を迎えた。
国道一三九号線。
早朝の静寂の中、大型トラックが轟音を立てて通過していく。
その排気ガスの臭いと、タイヤがアスファルトを擦る摩擦音が、俺の鼓膜に「現実」という名の情報を叩き込む。
俺は道路脇の待避所に停めてあった九条の車――黒塗りの高級セダンにたどり着いた。
鍵を開け、運転席に滑り込む。
シートの革の匂いが、ひどく懐かしく、そして人工的に感じられた。
「……生きてるな、俺」
バックミラーに映る自分の顔は、酷いものだった。
土気色の肌、窪んだ眼窩、唇はカサカサに乾き、髪には蜘蛛の巣と枯れ葉が絡まっている。
まるで、墓場から掘り起こされたばかりの死体のようだ。
助手席に、リュックを置く。
中には、石を噛ませて封印したロープ。
あの禍々(まがまが)しい質量は消滅しているが、それでもリュックの生地越しに、微弱な電流のような痺れを感じる。
エンジンをかける。
ナビの画面が明るくなり、無機質な女性の声が「おはようございます」と告げる。
その電子音声に、俺は涙が出そうになった。
人間ではないが、人間の言葉を話すモノ。
それがこれほど愛おしいとは。
車を走らせる。
風景が後ろへと流れていく。
緑の魔境が遠ざかり、コンビニ、ガソリンスタンド、民家といった文明の象徴が増えていく。
だが、俺の身体感覚には、奇妙なズレが残っていた。
ハンドルを握る手。
アクセルを踏む足。
それらの操作はスムーズだが、自分の身体が自分のものではないような、借り物を動かしているような違和感。
幻影肢という言葉がある。
失ったはずの手足が、まだそこにあるように痛みを感じる現象だ。
今の俺は逆だ。
あるはずの手足が、まだあそこに――樹海の奥底に置き忘れてきたように感じる。
特に首だ。
首の周りに、薄い膜が一枚張り付いているような感覚が消えない。
エアコンの風が当たると、そこだけ冷たく感じる。
まるで、見えない首輪をはめられているような。
「……気のせいだ。疲れてるだけだ」
俺はカーステレオのボリュームを上げた。
朝のニュース番組。
昨日の株価、今日の天気、芸能人の不倫騒動。
どうでもいい情報の羅列が、俺の脳内のノイズを上書きしてくれることを祈った。
***
九条堂に戻ったのは、開店時間の少し前だった。
シャッターをくぐり、薄暗い店内に入ると、九条蓮はカウンターで新聞を読んでいた。
まるで俺が帰ってくることを予知していたかのように、テーブルには湯気の立つティーカップが二つ用意されている。
「おかえり。顔色が悪いね。まるで幽霊にでも会ってきたような顔だ」
九条は新聞を畳み、薄く笑った。
その笑顔は、実験に成功した科学者のそれだ。
「……冗談抜きで、死ぬかと思いましたよ」
俺はリュックをカウンターの上に置いた。
ドサリ、という重い音。
中身は軽くなっているはずなのに、音だけは質量を持っていた。
「ほう。随分と『お土産』を詰め込んできたようだね」
九条は躊躇いもなくリュックを開け、中から厳重に目張りされたビニール袋を取り出した。
そして、俺が石を噛ませて固結びにした部分を見て、感心したように口笛を吹いた。
「石で栓をしたのか。原始的だが、理に適っている。穴があれば通りたくなるのが彼らの習性だからね。物理的に塞ぐというのは、即物的で実にいい」
彼は医療用のゴム手袋をはめ、慎重にロープを取り出した。
石を取り除くと、ロープはクタッとして、ただのゴミのようにテーブルの上に横たわった。
だが、九条の目は輝いていた。
彼はルーペを取り出し、ロープの繊維を舐めるように観察する。
「素晴らしい。繊維の奥まで、脂と念が染み込んでいる。見てごらん、この部分。変色しているだろう? これが死の瞬間の絶頂の痕跡だ」
俺は目を背けた。
見たくない。
あれが俺の首を絞めようとした凶器だという事実を、直視したくない。
「……約束の報酬、お願いします」
「ああ、もちろん。君はいい仕事をした」
九条は引き出しから分厚い封筒を取り出し、俺の前に置いた。
五〇万円。
帯封のついた新札の束。
それは俺の命の値段であり、魂を削って得た対価だ。
「ところで、真壁くん。何か『違和感』はないかい?」
九条が唐突に尋ねた。
手元のロープを撫でながら、視線だけを俺に向けてくる。
「違和感……?」
「例えば、身体の一部が重いとか。視界の端に何か映るとか。あるいは……誰かの声が聞こえるとか」
心臓が跳ねた。
俺は平静を装い、首を振る。
「いえ、特に。ただ疲れているだけです」
「そうか。ならいいんだ」
九条は興味を失ったように視線を戻した。
だが、その口元には、どこか意味深な笑みが張り付いていた。
「呪いというのはね、放射能と同じなんだ。直ちに影響はなくとも、細胞レベルで遺伝子を書き換えていく。君が持ち帰ったのはロープだけじゃない。君自身の『器』の変化も、今回の報酬の一部だと思っておくといい」
「……どういう意味ですか」
「そのうち分かるよ。さて、今日はもう帰りたまえ。ゆっくり休むといい。君の身体は、今、馴染もうとしている最中だからね」
馴染む?
何に?
問い詰めようとしたが、九条はすでにロープの処理に没頭していた。
ピンセットで何かを摘み上げ、小瓶に移している。
その姿は、あまりにも冒涜的で、これ以上関わってはいけないと俺の本能が告げた。
俺は封筒を掴み、逃げるように店を出た。




