第6話:背負う「肉塊」の正体――首に纏わりつく死
歩き始めて一時間が経過した。
本来なら、とっくに遊歩道に出ているはずの時間だ。
だが、周囲は相変わらず、同じような木の根と岩の迷宮だった。
リュックの重さは、ついに限界点に達しようとしていた。
推定六〇キロ。
成人男性の平均体重。
つまり、俺は今、死体を一人おぶって歩いているのと同じ状態だ。
背中の感覚が鋭敏になる。
リュックの布一枚隔てた向こう側に、確かな「形」を感じる。
硬い頭蓋骨のような感触。
背中に押し付けられる膝小僧のような突起。
そして、首筋に回そうとする、冷たい腕の気配。
『……解いてくれ……』
声が変わった。
哀願するような、弱々しい声。
『……苦しいんだ……首が……締まって……』
『……まだ、ぶら下がっている……俺は、まだ……』
『……助けて……』
違う。
こいつは、助けを求めているんじゃない。
道連れを探しているんだ。
『お前も、こっちに来いよ。楽になるぞ』
甘美な誘惑。
思考の麻薬。
疲労困憊した脳にとって、「諦める」という選択肢は、どんな快楽よりも魅力的だ。
足を止めて、このまま横になれば、全てから解放される。
就職活動も、借金も、将来の不安も、全て消えてなくなる。
俺の足が止まりかける。
膝がガクガクと震え、地面に崩れ落ちそうになる。
その時。
ズズッ、とリュックの中で「何か」が動いた。
背負っている「中身」が、位置を修正したのだ。
より安定して、俺にしがみつくために。
そして、俺の首に、何かが巻き付いた感覚があった。
冷たく、ざらついた感触。
見えないロープ。
いや、ロープの記憶そのものだ。
息が詰まる。
気道が圧迫される。
視界の端がチカチカと明滅し、白い光が溢れ出す。
「……ぐっ……!?」
俺は自分の首を掻きむしる。
何もない。
指は空気を掴むだけだ。
だが、喉の奥では、軟骨がきしむ音がしている。
頸動脈が圧迫され、脳への血流が遮断されていく。
『……一緒になろう……俺の代わりになってくれ……』
耳元で、男が笑った気がした。
乾いた、ひび割れた唇で、俺の耳朶を舐めながら。
これは、物理的な絞殺ではない。
呪詛による同化だ。
俺の「生」と、あいつの「死」を入れ替えようとしている。
意識が遠のく。
暗闇の中に、黄色と黒の縞模様が無限に広がっていく。
このままでは、俺が次の「佐久間健一」になる。
次の訪問者が来た時、俺の白骨死体の足元に落ちているのは、俺の学生証と、九条の名刺になるのだろう。
***
「……ふざ、けるな……!」
俺は最期の力を振り絞り、理性を総動員した。
恐怖に飲み込まれるな。
状況を分析しろ。
九条は何と言った?
『輪の中に指を入れるな』
『あそこは、この世とあの世を繋ぐゲートだ』
『排気口と言ってもいい』
そうだ。
こいつは、ロープの「輪」を通じて、こちらの世界に干渉してきている。
輪が開いているから、そこから怨念が漏れ出し、俺の首を絞めているのだ。
なら、どうする?
切ることはできない。ハサミはもうリュックの底だ。
捨てることもできない。背中に張り付いて離れない。
ならば、「塞ぐ」しかない。
ゲートを閉じる。
物理的に。
俺はその場に膝をつき、リュックを強引に身体の前へと回した。
六〇キロの肉塊をねじ伏せるように、地面に叩きつける。
リュックの中で、何かが「ギャッ」と悲鳴を上げた気がした。
俺は震える手でファスナーを開ける。
中から、腐臭を含んだ冷気が噴き出す。
ビニール袋の中で、ロープが蠢いている。
まるで蛇玉のように絡み合い、脈打っている。
俺は足元にあった、手頃な大きさの玄武岩を拾い上げた。
ゴツゴツとした、握り拳大の石。
そして、ビニール袋の上から、ロープの「結び目」を探り当てた。
かつて佐久間の首を絞めていた、あの輪っかの部分だ。
「……ここだ」
指先の感触でわかる。
そこだけ異常に冷たく、そして硬い。
エネルギーの噴出孔。
俺はロープの輪の部分を袋越しに掴み、その中心に、拾った石を強引にねじ込んだ。
そして、石を核にして、ロープを固く結び直す。
『……なにを……する……!?』
脳内に響く声が、焦燥の色を帯びる。
「黙れ! お前の首はここじゃない!」
俺は叫びながら、渾身の力で結び目を締めた。
輪を塞ぐ。
空洞を埋める。
「首が入るスペース」を物理的に消滅させる。
石を噛ませて、これ以上ないほどきつく、固結びにする。
それは、即席の封印術だ。
呪術的な知識はない。
だが、この世の理屈として、「穴がなければ通れない」というのは真理のはずだ。
ギリギリと繊維が悲鳴を上げる。
俺の指の皮が剥け、血が滲む。
「これで……どうだッ!!」
最後の一締めを行った瞬間。
フッ、と。
周囲の空気が軽くなった。
背中にのしかかっていた鉛のような重圧が、霧散した。
耳鳴りが止む。
腐臭が消え、代わりに森の湿った土の臭いが戻ってくる。
リュックの中のロープは、ただの汚れた工業製品の塊に戻っていた。
重さも、数百グラムの感触しかない。
『……ああ……』
最後に、微かな溜息のような音が聞こえた。
それは悔しげでもあり、同時に、諦めを含んだ安堵のようにも聞こえた。
俺はその場にへたり込んだ。
全身汗まみれだ。
心臓が早鐘を打っている。
GPSロガーを確認する。
ノイズが消え、正常な数値が表示されている。
現在地は、遊歩道からわずか五十メートル地点。
俺は一時間もの間、出口のすぐそばで、幻覚の中を彷徨っていたのだ。
「……終わった……のか?」
俺は石を噛ませたロープ入りのリュックを、再び背負った。
軽い。
羽が生えたように軽い。
だが、その軽さが逆に恐ろしかった。
中身が消えたわけではない。
ただ、一時的に「口」を塞がれただけで、その内側には依然として濃密な地獄が詰まっているのだから。
東の空が、白み始めていた。
樹海の木々の隙間から、薄青い光が差し込んでくる。
夜明けだ。
俺は立ち上がり、遊歩道へと足を向けた。
足取りは重いが、確かな現実感があった。
だが、俺は知らなかった。
呪いというのは、一度触れたら、そう簡単には洗い流せないということを。
皮膚に染み込んだインクのように、それは時間をかけて、俺の内側へと浸透していくのだということを。




