第5話:切断という名の儀式――死者と対話する瞬間
虚空に吊られた「見えない男」と対峙する。
距離は三メートル。
俺とロープの間には、物理的な障害物は何もない。
ただ、濃密な死の気配と、樹海特有の磁場の歪みが、透明なゼリー状の壁となって立ちはだかっている。
ロープの輪は、俺の方を向いたまま静止している。
微動だにしない。
だが、その「穴」の奥から、無数の視線が注がれているような圧迫感がある。
『……誰だ……?』
脳内に響くノイズ。
ラジオのチューニングが合っていない時のような、ザラついた思考の断片。
これは佐久間健一の声ではないかもしれない。
樹海という巨大な受信機が拾い集めた、無数の死者たちの集合的無意識のささやきだ。
俺は高枝切りバサミのアームを伸ばした。
金属の冷たさが、掌の汗を通して骨まで伝わってくる。
狙うのは、枝と輪の中間地点。
テンションがかかっている部分だ。
「……九条さんの店で、安らかに眠らせてやるよ」
俺は口先だけで強がりを言う。
言葉に魂を込めれば、相手に感応してしまう。
これは単なる作業だ。
ゴミ拾いだ。
感情を排し、機械的に処理する。
ハサミの刃先が、黄色と黒のロープを捉えた。
カチリ。
金属と繊維が接触する微かな感触。
その瞬間、周囲の空気が急激に温度を下げた。
マイナス二七三度、絶対零度の宇宙空間に放り出されたような、皮膚が粟立つ感覚。
『……やめろ……』
声が、明確な拒絶の意志を帯びる。
『……まだ、死にきれていない……まだ、痛いんだ……』
無視だ。
聞こえていないふりをする。
俺はグリップを握る手に力を込めた。
ギチッ。
ロープは古く硬化しており、簡単には切れない。
繊維の一本一本が、死者の神経線維のように強靭で、ハサミの刃を拒んでいる。
「切れろッ……!」
俺は奥歯を噛み締め、全身の体重をかけてグリップを握り込んだ。
ブツンッ!!
破裂音と共に、ロープが切断された。
その瞬間、物理法則が戻ってきた。
ピンと張っていた緊張が解け、下側のロープ(輪の部分)が、ドサリと地面に落下する――はずだった。
だが、違った。
切断されたロープは、落下しなかった。
まるで、見えない手がそれをキャッチしたかのように、空中でふわりと浮遊したのだ。
そして、輪の部分がスルスルと解け、一本の紐状に戻りながら、俺の足元へと蛇のように滑り落ちてきた。
同時に、突風が吹いた。
無風の樹海で、ありえないほどの暴風。
落ち葉が舞い上がり、腐った木の枝が折れて飛んでくる。
俺の耳元で、男の絶叫が炸裂した。
『痛ァァァァァァァァァッ!!』
鼓膜が破れそうなほどの音量。
だが、それは空気の振動ではない。
俺の聴覚神経を直接ショートさせるような、電気信号の暴走だ。
俺は尻餅をつき、後ずさる。
足元のロープが、まるで生き物のように蠢いているように見える。
「……回収、回収だ」
俺は震える手でトングを取り出し、ロープを摘み上げた。
絶対に直接触れてはいけない。
これは放射性廃棄物よりも危険な汚染源だ。
あらかじめ用意していた厚手のビニール袋に、ロープを押し込む。
チャックを閉め、さらにその上からガムテープで厳重に目張りをする。
そして、リュックの底に詰め込んだ。
作業完了。
所要時間、わずか一〇秒。
だが、俺の心拍数は一分間に二〇〇を超えていた。
「帰るぞ……一秒でも早く」
俺は立ち上がり、来た道を戻ろうとした。
だが、その時、異変に気づいた。
リュックが、重い。
最初は気のせいだと思った。
疲れと緊張で、感覚が麻痺しているのだろうと。
だが、一歩踏み出すごとに、その違和感は確信へと変わっていった。
たかが数メートルのロープ一本。
重さにすれば数百グラムのはずだ。
だが、今、俺の背中にあるのは、明らかにそれ以上の質量だった。
五キロ。
一〇キロ。
一歩進むごとに、リュックの中で「何か」が急激に成長している。
***
帰り道は、行きよりも遥かに困難だった。
ヘッドライトの光が、頼りなく揺れる。
GPSロガーを取り出すと、画面は砂嵐のようなノイズで埋め尽くされていた。
数字の羅列が高速で回転し、現在地も目的地も、すべてが意味をなさない記号の羅列と化している。
「……クソッ、やっぱり壊れたか」
九条の予言通りだ。
磁場の乱れか、それともロープが発する「負のエネルギー」が電子回路を焼き切ったのか。
俺はマーキングテープを探した。
行きに目印にした、あの青いスズランテープ。
あれさえ見つければ、遊歩道まで戻れるはずだ。
だが、見つからない。
あるはずの場所に、テープがない。
代わりに、そこには全く別の風景が広がっていた。
見たことのない巨木。
底なし沼のような窪地。
そして、無数に垂れ下がる蔦。
景色が書き換えられている。
いや、空間そのものがループしているのか。
「ハァ……ハァ……」
息が上がる。
リュックの重さは、すでに二〇キロを超えていた。
肩のベルトが肉に食い込み、鎖骨がきしむ音を立てる。
重さの質が変わってきている。
単なる物理的な重量ではない。
水を含んだ綿のような、あるいは生肉の塊のような、重心の定まらない不快な重さ。
歩くリズムに合わせて、リュックの中で「中身」が揺れ、背中にボヨン、ボヨンとぶつかってくる。
その感触は、まるで背負っている人間が、俺の背中で頷いているかのようだ。
『……重いか?』
声がした。
今度は、はっきりと耳元で。
俺は反射的に振り返る。
誰もいない。
闇が広がっているだけだ。
だが、首筋に生温かい風が当たった。
吐息だ。
腐った胃液と、メントールの混ざった臭い。
『……俺も、重かったんだ……借金も……家族も……人生も……』
声の主は、リュックの中にいる。
いや、リュックの中のロープを媒介にして、俺の背中に憑依している。
佐久間健一。
あるいは、彼になりすました別の何か。
俺は恐怖を怒りで塗りつぶすことで、かろうじて正気を保とうとした。
「うるさい! 黙って乗ってろ! 運賃代わりに五〇万もらうんだ、文句言うな!」
虚空に向かって怒鳴る。
だが、声はすぐに闇に吸い込まれる。
リュックはさらに重くなる。
三〇キロ。
四〇キロ。
背骨が悲鳴を上げる。
膝が笑う。
足元の溶岩が、俺の足首を掴んで離さない泥沼のように感じる。
これは、物理的な重さではない。
「情報の重さ」だ。
一人の人間が生きてきた四五年の歳月。
その記憶、感情、因果、罪悪感。
それら全てが、データとして圧縮され、ロープというハードディスクに保存されている。
そして今、そのデータが解凍され、俺の肉体というOSに負荷をかけているのだ。
俺はただの運び屋だ。
中身を知る必要はない。
だが、背中越しに伝わってくる情念は、俺の脳に強制的にインストールされてくる。
子供の運動会の映像。
妻との口論。
上司の嘲笑。
督促状の赤い文字。
そして、首に縄をかけた時の、あの冷たい感触。
「……やめろ……入ってくるな……!」
俺は頭を振り、幻覚を追い払おうとする。
だが、意識の防壁は脆くも崩れ去りそうだ。




