第4話:虚空を絞める首――見えない死の質量
目的地に近づくにつれて、森の様相が変化してきた。
木々の密度が増し、枝葉が空を覆い尽くして、月明かりを完全に遮断している。
完全な闇。
そして、完全な無音。
いや、無音ではない。
「音が死んでいる」のだ。
自分の足音、衣擦れの音、呼吸音。
それらが発せられた瞬間に、周囲の空間に飲み込まれて消滅する。
聴覚遮断室(無響室)に閉じ込められたような閉塞感。
平衡感覚が狂い始める。
地面が傾いているのか、俺の三半規管が麻痺しているのか分からない。
木々がねじれ、人の顔のように見えるパレイドリア現象が頻発する。
木の幹の模様が、苦悶する老人の顔に見える。
垂れ下がる蔦が、長い髪の毛に見える。
足元の岩が、うずくまる子供の背中に見える。
脳が疲弊している証拠だ。
パターン認識能力が過敏になり、ランダムな情報の中に意味を見出そうとして暴走している。
そして、臭い。
先ほどまでの土とカビの臭いに混じって、別の臭気が漂い始めた。
甘ったるい、脂の腐ったような臭い。
そして、古い整髪料と、安っぽいコロンが混ざり合ったような、哀しい「おじさん」の臭い。
それは、嗅覚情報としての臭いというより、記憶を直接刺激する幻臭に近い。
満員電車の不快感。
安い居酒屋の喧騒。
くたびれたスーツの背中。
ターゲットが近い。
俺の直感がそう告げている。
九条の言葉がリフレインする。
『遺体はどうでもいい。欲しいのは、その首に食い込んでいる縄だけだ』
俺はリュックから高枝切りバサミを取り出した。
刃渡り五センチほどの鋭利な刃先。
本来は果実や枝を剪定するための道具だが、今夜は因果を断ち切るためのメスとなる。
「……いるな」
ライトの光が、前方の空間を切り裂いた。
そこに、不自然な空白があった。
木々が密集する中で、ぽっかりと開いた円形の空間。
まるで、そこだけ植物が生えるのを拒否したかのような、不毛のスポット。
その中心に、一本の巨木が立っていた。
樹皮は剥がれ落ち、白骨のように白く乾燥している。
枝は奇妙にねじれ、天に向かって助けを求める手の形に固まっている。
そして、その太い枝から、一本の線が垂れ下がっていた。
黄色と黒の縞模様。
工事現場でよく見る、トラロープ。
ホームセンターで数百円で買える、ありふれた工業製品。
だが、そのロープは、物理法則を無視した状態にあった。
***
俺は息を呑み、その光景に釘付けになった。
ロープの先端には、輪が作られていた。
もやい結びだろうか。
素人が見よう見まねで作ったような、不格好な結び目。
その輪の下には、確かに「何か」があった。
かつて佐久間健一だったモノ。
だが、それは地面に落ちていた。
白骨化した頭蓋骨が、土の上に転がっている。
肋骨や大腿骨が、ジグソーパズルのピースのように散乱している。
安物のスーツは泥にまみれ、ボロボロに朽ち果てて、中身のない抜け殻として地面にへばりついている。
遺体は、落ちていたのだ。
腐敗が進み、首がちぎれ、重力に従って落下した。
それは自然な物理現象だ。
肉体という有機物が、土に還るプロセスに過ぎない。
しかし。
ロープは、ピンと張っていた。
誰もぶら下がっていないはずのロープが、強烈なテンションを保ったまま、垂直に伸びている。
先端の輪っかは、地面から一・五メートルほどの高さ、ちょうど成人の首の位置で、きつく絞められた状態で静止している。
まるで、見えない首が、まだそこに「ある」かのように。
「……嘘だろ」
俺は呻く。
風はない。
何かに引っかかっているわけでもない。
輪の中には、虚空しかない。
だが、その虚空には、確かな質量が存在している。
ロープの繊維がミシミシと音を立ててきしんでいるのが聞こえる。
六十キログラム近い重りが、見えない透明なフックで引っ掛けられているのだ。
『……あ……あぁ……』
声がした。
耳ではない。
脳の奥底、松果体のあたりに直接響く、濡れたノイズ。
苦痛に満ちた、しかしどこか恍惚とした、絞り出すような喘ぎ声。
『……痛い……苦しい……でも……気持ちいい……』
佐久間健一の残留思念か。
それとも、この場所に溜まった樹海の毒素が見せる幻覚か。
彼の肉体は土に還った。
だが、彼の「死にたい」という強烈な意志と、死の瞬間の「苦痛と快楽」だけが、あの輪の中に真空パックされて保存されている。
九条が欲しがったのは、これだ。
この、物理法則を無視して空間を歪めるほどの、純度の高い呪い。
「……これを、切るのか」
俺の手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。
あれは、単なるロープではない。
あそこにあるのは、この世の裂け目だ。
「死」という概念が凝縮され、ブラックホールのように周囲の現実を吸い込んでいる特異点だ。
俺は震える手で高枝切りバサミを構えた。
距離は三メートル。
ハサミのアームを最大まで伸ばせば、ギリギリ届く。
絶対に、輪の中に指を入れるな。
九条の警告が、警告音のように脳内で点滅する。
俺は一歩、踏み出した。
ジャリ、と溶岩が砕ける音が、静寂の中で雷鳴のように響き渡った。
その瞬間、ロープの輪が、カクリと動いた。
まるで、見えない男が、俺の方を振り向いたかのように。




