第3話:狂気のテント――逃亡者たちの脳内残響
遊歩道を一歩外れた瞬間、世界の解像度がガクリと落ちた。
そこは、観光客が記念撮影をする牧歌的な森林公園ではない。
地球という巨大な有機体が、長い時間をかけて吐き出した吐瀉物の上に成立した、カビと苔の王国だ。
青木ヶ原樹海。
その実態は、八六四年の貞観大噴火によって流出した溶岩流の上に広がる、広大な「かさぶた」である。
足元の地面は土ではない。
多孔質の玄武岩だ。
無数の気泡を含んだ岩肌は、まるで乾燥した肺胞のようにスカスカとしていて、踏みしめるたびに「グシャリ、グシャリ」と、骨を噛み砕くような不快な音を立てる。
時刻は深夜二時。
丑三つ時という、オカルト的な概念が最も活性化する時間帯。
俺はヘッドライトの光だけを頼りに、緑の腸壁のような森の奥へと進んでいた。
「……寒いな」
独り言を漏らすが、その声はすぐさま周囲の闇に吸着され、消滅する。
この森には、反響という物理現象が欠落しているようだ。
溶岩の気泡が音波を乱反射させ、吸収してしまうためらしいが、感覚としては「森が俺の存在を無視している」という方が正しい。
手元のGPSロガーを確認する。
九条から渡されたその機械は、緑色の液晶画面に頼りない光を灯している。
だが、表示される現在位置のアイコンは、小刻みに震え、時折ありえない速度でスライド移動する。
磁気異常。
溶岩に含まれる磁鉄鉱がコンパスを狂わせるというのは有名な話だが、デジタル機器とて例外ではない。
衛星からの信号は届いているはずなのに、地上の座標軸そのものが捻じれているような感覚だ。
まるで、熱にうなされた病人の脳内を歩いているようだ。
俺は、九条の警告を思い出す。
『GPSを過信するな』
文明の利器が機能を喪失した時、人間は動物的な嗅覚に頼るか、あるいは先人の残した痕跡に縋るしかない。
ライトの光束が、闇の中に一本の「線」を浮かび上がらせた。
それは、木の枝に無造作に結び付けられた、青いビニール紐だった。
スズランテープ。
本来は荷造りやポンポンの作成に使われる安っぽい工業製品が、ここでは命綱として機能している。
誰かが、ここを通ったのだ。
帰るために残したのか、それとも、死に場所を探して迷走した痕跡なのか。
俺はその人工的な色彩に、一瞬だけ安堵を覚えた。
だが、近づいてよく見た瞬間、その感情は吐き気に変わった。
テープは古く、風化してボロボロになっていた。
そして、その表面には、黒い油性マジックで、びっしりと文字が書き込まれていたのだ。
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいゆるしてゆるしてゆるして』
文字は後半になるにつれて乱れ、最後はただの線の羅列になっていた。
これは道しるべではない。
精神が崩壊していく過程を記録した、脳波のグラフだ。
俺は唾を飲み込む。
喉の奥で、「ゴクリ」という音が爆音のように響く。
この先にあるのは、出口ではない。
このテープを結んだ人間が行き着いた、「終着点」だ。
だが、俺の目的地もまた、その方向にある。
「悪趣味な案内板だな……」
俺は吐き捨てるように言い、テープの先へと足を向けた。
背中のリュックの中で、高枝切りバサミがカチャリと鳴った。
まるで、「早く切らせろ」と急かすように。
***
樹海を歩くということは、他人の記憶の残骸を踏みしめる行為に等しい。
三十分ほど歩いた頃だろうか。
風景はフラクタル構造のように、どこまで行っても同じパターンを繰り返していた。
捻じれた根、苔むした岩、腐った倒木。
方向感覚という羅針盤はとっくに故障し、俺は自分が前進しているのか、それとも同じ場所を円運動しているのか分からなくなっていた。
そんな緑の牢獄の中に、異質な色彩が点在し始める。
最初は、片方だけの革靴だった。
苔の生えた岩の上に、鎮座するように置かれている。
中を覗き込む勇気はない。
もし、靴下の中に「中身」が残っていたら、俺の正気はそこでショートするだろう。
次に現れたのは、空になった酒の瓶だ。
一升瓶。
ラベルは雨水で溶け落ち、銘柄は判別できない。
だが、その周囲には、未消化の錠剤のような白い粒が散乱していた。
睡眠薬か、あるいは風邪薬の過剰摂取か。
死のうとして、死にきれず、酩酊状態で森を彷徨ったのか。
それとも、最後の晩餐として酒をあおり、薬で意識をシャットダウンさせようとしたのか。
それらはゴミではない。
かつて人間であったモノが脱ぎ捨てた、「生への執着」の抜け殻だ。
俺はそれらを跨ぎ、避けて進む。
触れてはいけない。
九条は『感染る』と言った。
物理的な細菌の話ではない。
ここに捨てられた絶望という名の精神ウイルスは、触媒を通して生者の脳に侵入し、自己破壊衝動という名の病巣を植え付けるのだ。
「……ん?」
ライトの先が、奇妙な隆起を捉えた。
木の根元に、不自然な膨らみがある。
近づいてみると、それは朽ち果てたドーム型のテントだった。
かつては鮮やかなオレンジ色だったのだろうが、今は泥とカビでどす黒く変色し、巨大な腐った果実のように見える。
入り口のファスナーは半開きになっていた。
そこから覗く暗闇は、この世のどこにも繋がっていない空洞のように見えた。
風がないのに、テントの生地が微かに揺れている。
内側からの圧力か、それとも俺の視線が起こした微細な気流か。
『……ウ……』
耳鳴りか。
それとも、テントの中から声がしたのか。
湿った、空気が漏れるような音。
俺の足が止まる。
本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らすが、理性が「確認しろ」と命令する。
もし、ターゲットの佐久間健一が、この中にいるとしたら?
俺は息を止め、高枝切りバサミの柄を握りしめながら、テントの隙間にライトを向けた。
中には、誰もいなかった。
ただ、生活の痕跡だけが濃厚に凝縮されていた。
カビた寝袋。
散乱するスナック菓子の袋。
そして、大学ノートが一冊。
ノートは湿気で膨らみ、波打っている。
風でめくれたページに、ミミズが這ったような文字が見えた。
『会社に行かなきゃ』
『部長が呼んでいる』
『電話が鳴っている』
『うるさい』
『うるさい』
『うるさい』
ページが黒く塗りつぶされている。
ボールペンの先が紙を突き破り、下のページまで傷つけている。
これは、佐久間のものではないかもしれない。
別の誰かの、終わらない残業の記録だ。
このテントの主は、社会というシステムから逃亡し、この樹海という異界にアジール(聖域)を求めた。
だが、結局は脳内にこびりついた強迫観念から逃れられず、ここで孤独に狂っていったのだ。
俺は視線を逸らし、後ずさる。
見てはいけないものを見た。
他人の脳ミソを解剖して、その膿を直視してしまったような不快感。
「……関係ない。俺の仕事は、ロープの回収だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
声に出さなければ、この粘着質な空気に自我を溶かされてしまいそうだった。
俺はGPSロガーを強く握りしめた。
画面の座標は、ターゲットの地点まであと数百メートルを示している。
機械的な数値だけが、今の俺を現実に繋ぎ止める唯一の鎖だった。




