第2話:禁忌の手術――首吊り縄の「ゲート」
「場所の特定は?」
俺は事務的な口調を努めて維持する。
感情を交えれば、この狂気に飲み込まれる。
「ここだ」
九条はタブレット端末を取り出し、地図アプリを表示した。
青木ヶ原樹海。
等高線が複雑に入り組んだそのエリアの、遊歩道から大きく外れた一点に、赤いピンが刺されている。
「GPSロガーの情報だ。以前、この近くで行方不明になった『同業者』が残したログの最期の地点だよ」
「……同業者?」
聞き捨てならない単語に、俺は眉をひそめる。
「ああ、気にしなくていい。彼は回収に失敗しただけだ。精神的な免疫力が低かったのかな。森の『声』に耳を傾けすぎて、自分が人間であることを忘れてしまったらしい」
九条は事もなげに言う。
まるで、実験動物が死んだことを報告する科学者のように。
「君は大丈夫だ。君には才能がある。恐怖を感じながらも、金のためにそれを無視できるという、素晴らしい資本主義的な鈍感さがね」
褒められている気がしない。
だが、俺の脳裏には、アパートの督促状と、空っぽの冷蔵庫の映像がフラッシュバックする。
生存本能が、恐怖という警告信号を強引にねじ伏せる。
「ターゲットは、推定四五歳の男性。佐久間健一。リストラと借金を苦にしての逃避行だ。車のトランクには、家族との写真と、消費者金融のカードが散乱していたそうだ」
ありふれた悲劇。
陳腐な絶望。
だが、だからこそ、その念は粘着質だ。
特別な人間が抱く高尚な恨みよりも、凡人が抱く「なんで俺だけが」という理不尽な怒りの方が、呪いとしては質が悪い。
「樹海はね、真壁くん。巨大な脳ミソなんだよ」
九条は唐突に言った。
「溶岩の上に広がる森。磁場が狂い、方向感覚が失われる。そこでは、人間の意識と無意識の境界が曖昧になる。自分が考えていることと、他人の残留思念が混ざり合うんだ」
彼はカップの中の黒い液体を揺らす。
「君が回収に行くのは、単なるロープじゃない。樹海という巨大な脳のシナプスに絡みついた、悪性の腫瘍だ。それを摘出してくるんだ」
俺は溜息をつき、覚悟を決める。
「わかりました。その腫瘍、切り取ってきますよ。……道具は?」
***
九条がカウンターの下から取り出したのは、無骨なリュックサックと、銀色に鈍く光る高枝切りバサミだった。
「ハサミ……?」
「遺体が高い位置にある可能性があるからね。それに、直接手で触れるのはお勧めしない。感染るからね」
感染る。
その言葉が、物理的なウイルスではなく、精神的な汚染を指していることは明白だった。
「いいかい、真壁くん。作業の手順は三つだ」
九条は子供に言い聞かせるように指を立てる。
「一つ。GPSを過信するな。磁場の乱れで狂うことがある。自分の足跡と、マーキングテープを信じろ」
「二つ。遺体には敬意を払うふりをして、無視しろ。彼らは君に話しかけてくるかもしれないが、それは脳が見せる幻聴だ。返事をすれば、君の脳波は彼らに同調してしまう」
そして、九条は三本目の指を立て、声を一段低くした。
「三つ。これが最も重要だ」
彼は俺の目を覗き込む。
その瞳の奥には、底のない井戸のような暗闇が広がっている。
「縄を切る時、絶対に『輪』の中に指や体の一部を入れるな」
「……輪の中に?」
「そう。首吊りの輪っかだ。あそこはね、この世とあの世を繋ぐゲートなんだ。排気口と言ってもいい。切断した瞬間、そこから何が吹き出してくるか分からない。もし指を入れていたら……君の指ごと、あるいは君の魂ごと、あちら側に引きずり込まれるぞ」
ぞわり、と総毛立つ感覚。
首筋を、見えない指で撫でられたような気がした。
「了解しました。……輪の外から、切る。それだけですね」
「そうだ。簡単な手術だよ。成功すれば五〇万。失敗すれば……まあ、僕が君の遺品を買い取ってあげるよ」
冗談に聞こえないのが、この男の恐ろしいところだ。
俺はハサミとGPS、そして幾つかの「魔除け」と称されたよく分からない小瓶が入ったリュックを受け取った。
ずしりと重い。
それは物理的な重量以上の、運命の重さのように感じられた。
店を出ると、外はすでに夕暮れだった。
空が赤黒く膿んでいる。
ビルの影が伸び、アスファルトの上を黒い触手のように這い回っている。
俺は深く息を吸い込んだ。
排気ガスの臭い。
これが「現世」の臭いだ。
これを最後に、俺はあの緑の迷宮へと潜る。
樹海。
死にたがりたちの聖地。
そして、呪われたガラクタの埋立地。
「……行くか」
俺は呟き、駅へと向かう足を速めた。
背中のリュックの中で、高枝切りバサミの刃が、カチリと微かな音を立てた気がした。
まるで、これから切断する「何か」を待ちわびて、舌なめずりをしているかのように。




