第3話:境界の溶解
足首を捉えた異形の感触。それは氷よりも冷たく、生ゴムよりも粘り気があり、同時に鋼よりも強靭だった。引きずられる。抵抗は無意味だった。まるで流砂に飲み込まれるように、僕の体はあの蓋の開いた木箱へと吸い込まれていった。外の光は瞬時に遮断され、底なしの闇と、強烈な腐敗臭、土壌の深部のような重い湿気が襲いかかる。ここは木箱の内部というより、異界へのゲートそのものだ。
「ぎゃああっ!」
悲鳴は、詰まった海綿のように闇に吸い取られた。体はどこにもぶつからず、ただひたすら落下していく感覚。しかし、落下感と同時に、無数の「視線」を感じる。
周囲の闇そのものが、生きた粘質のように蠢き、無数の微細な目玉のような光がちらついている。視界は歪み、二重、三重に重なる。あの後部座席の影が、今、この闇の至る所に溶け込んでいる。それは一つではなく、無数だったのだ。彼ら、いや「それら」は、黒い石油のように流動し、形を変え、僕を取り囲む。
「…か…え…し…て…」
声が重なり合う。無数のささやきが、脳髄を直接掻きむしる。意味は分からない。ただ、途方もない時間と、底知れぬ喪失感、そして歪んだ執着が、その声に込められていることは感じ取れた。僕は捕らわれた。獲物だ。しかし、なぜ? 宅配便のドライバーに過ぎない僕が…。その問いすら、闇に飲み込まれていく。
気が遠くなるような時間が経ったか、それとも一瞬だったか。僕は再び、軽ワゴンの運転席に座っていた。ハンドルを握る手。視界には、見慣れたはずの街並みが広がっている。しかし、全てが違う。
色が褪せ、輪郭がぼやけ、建物が不自然な角度で傾いている。空は常に薄暗く、歪んだ紫色や緑色の光が不気味にうねっている。路上にいる人影は、どれも輪郭がぼやけ、スムーズに動かず、カクカクと、まるで粗悪なアニメーションのように歩いている。彼らの顔には、詳細がない。目鼻立ちがぼんやりとしたシミのようだ。
配達リストが助手席にある。紙自体が湿り気を帯び、文字は滲み、歪んでいる。宛先は全て、現実の地図には存在しない場所だ。「歪み坂3丁目」「影沼通り」「くねくね団地」…。そして、いつも最後にあるのは「藤堂家」だ。拒否しようとする意志は、最初の一滴の水のように蒸発してしまう。体が自動的に動く。アクセルを踏む。エンジン音は鈍く、水の中で響くような不自然な唸りだ。
配達先は、常に薄暗い路地の奥だ。受け取る「住人」たちは、輪郭が震え、影が濃すぎる。声は歪み、意味不明だ。彼らが差し出すサインは、意味をなさないぐにゃぐにゃとした線の集まりで、触れると冷たい。
代金として渡されるのは、生温かい小石や、濡れた髪の毛の塊、あるいはただの闇だった。受け取るたびに、僕自身の輪郭が少しずつ、微かに震え始めるのを感じる。指先が、ほんの一瞬、透けて見えるような気がする。視界の歪みが、以前よりもひどくなっている。このワゴン自体が、歪んだ世界を移動する棺桶なのだ。後部座席には、常に濃密な闇が充満している。あの「同行者」たちが、今もずっと、僕の運ぶ「配達物」を待ち侘びている。