第7話:我が罪を喰らい、獣は真実を思い出す
松本電波塔は、夜の闇を貫く、一本の巨大な鋼鉄の墓標であった。その最上階へと向かう業務用エレベーターの箱の中は、生温かい鉄錆の匂いに満ち、天井からは、ぽつり、ぽつりと粘性の高い液体が滴り落ちていた。それは雨漏りなどではない。照明に照らされ、私の頬を伝うその液体は、紛れもなく人間の血液であった。壁面という壁面には、苦悶に喘ぐ無数の黒い手形が、まるで内側から亡者たちが叩きつけたかのように、おびただしく浮かび上がっている。ここは塔ではない。地獄の最下層から天へと伸びる、亡者たちの喉笛なのだ。
『ようこそ、新たな聖域へ。ここは、偽りの言霊が集い、増殖し、そしてこの国を覆い尽くす、穢れの心臓』
緊急用のスピーカーから、割れたガラスのような音質で、梢と老婆の混声が流れ出す。扉が開くと、そこに広がっていたのは、無数のサーバーラックが墓石のように林立し、無数のLEDランプが鬼火のように明滅する、機械仕掛けの神殿であった。監視カメラの赤いランプ、その一つ一つが、私を射抜く無機質な目玉となる。
私のポケットで灼熱を発していたスマホが、ひとりでに起動し、見たこともない、禍々しいデザインのニュース配信サイトを立ち上げた。そこでは、私が今まさにこの場所にいることが、リアルタイムで記事として生成されていく。『【速報】神の使い、穢れの中枢に到達』。その記事の背景で、あの御嶽山の狛狐の影が、カクカクとした、冒涜的なダンスを踊っていた。
『清めよ。この国の動脈を流れる、情報のヘドロを、喰らい尽くせ』
命令。それはもはや、抗うことすら許されぬ、絶対的な天啓であった。私の顎が、意思に反して、獣のそれのように大きく開く。鋭く尖った歯が、サーバーラックから伸びる、蛇のように太い配線ケーブルの束に、躊躇なく食い込んだ。ブチッ、ブチッ、という鈍い音。ゴムの被膜が裂け、剥き出しになった銅線が歯茎を切り裂く。口内に広がる、鉄錆とプラスチックの焼ける味。それは、現代文明の味であった。ケーブルを噛み千切る度、そこから流れ込んでくるのは電力ではない。インターネット空間に蓄積された、人間の、剥き出しの悪意、嫉妬、虚偽、そして呪詛の奔流であった。それらが、私の喉を焼きながら、魂に直接流れ込んでくる。
その時、サーバーラックの影から、ぬっと、複数の人影が現れた。それは、あのゴルフ場で見た、旧日本軍の軍服を纏った亡霊たちであった。彼らは、なぜここに。ああ、そうか。この電波塔は、戦時中、偽りの戦果を報じ、国民を狂気へと煽動した、プロパガンダ放送の拠点でもあったのだ。亡霊の一体が、錆び付いた銃口を、私へと向けた。
銃声。しかし、痛みはなかった。撃ち抜かれたはずの私の胸から迸ったのは、血飛沫ではなく、目も眩むほどの光を放つ、光ファイバーケーブルの束であった。それらは、まるで生きている触手のように、部屋中のサーバーへと接続していく。タワー全体が、断末魔のように激しく震え、共振する。その瞬間、日本全国、全ての家庭、全ての街頭ビジョン、全てのスマートフォンの画面が、一斉にジャックされた。そこに映し出されたのは、御嶽山で神隠しに遭い、無惨な骸と成り果てた、おびただしい数の人々の、未公開映像であった。
「やめろッ!」
それは、私の中に残された、人間の最後の叫びであった。私の両腕が、もはや獣のそれと化した両腕が、巨大な配電盤を、その鉤爪で引き裂き、破壊する。凄まじい爆発音と閃光。爆ぜて砕け散る無数のモニター群、その一つ一つの破片に、完全に獣と化した、異形の「私」の姿が、無限に映り込んでいた。脇腹の呪文が、四つ、同時に焼け焦げて消滅した。その代償として、私の聴覚は、神の領域へと踏み込んでいた。数十キロ先の、赤子の産声が、恋人たちの囁きが、そして、孤独な老人のか細い泣き声が、全て等価値の音響として、鼓膜に叩きつけられていた。
***
電波塔での「清め」から三日が経過した。私は、梢のアジトで、ただひたすらに眠り続けていたらしい。目覚めた私の身体には、更なる、そして決定的な変化が訪れていた。私の左腕が、手首から肩にかけて、まるで磨りガラスのように、半透明に透け始めているのだ。皮膚の下の血管も、筋肉も、骨も、全てがこの世ならざるものへと変質し、存在そのものが希薄になっている。それは、人間と、この世ならざるモノとの境界線が、私自身の肉体の上で、崩壊しつつあることの証左であった。
世界もまた、静かに、しかし確実に変容していた。私のスマホには、無数の通知が届いている。私がSNSにアップロードした覚えのない、御嶽山の風景動画が、勝手に、あの神隠しの犠牲者たちの、生前の楽しげな映像へと、巧みに書き換えられているのだ。人々はそれを、心霊現象としてではなく、何かの啓示として受け止め始めていた。コメント欄は、「神は存在する」「我々は試されている」といった、熱に浮かされたような言葉で埋め尽くされている。あの『憑狐互助会』の、生き残りと思しき数名からは、もはや脅迫状ではなく、「ありがとうございます、我々の役目は終わったのですね」という、狂信的な感謝のメールが届いていた。
『第四の穢れは、「記憶の改竄」。お主自身の、罪の記憶じゃ』
眠りから覚めた私の脳髄に、老婆の声が、静かに、しかし有無を言わさぬ力強さで響き渡った。導かれるようにしてたどり着いたのは、あの、三つ目の穢れの舞台となった廃校舎、その最も奥にある、埃と黴の匂いが支配する図書室であった。書架に並ぶ、煤けた卒業アルバム。何気なく、その一冊を手に取り、開いてみた。そして、全身の血が凍りついた。そこに写る、幾百、幾千という、生徒たちの笑顔、その全てが、寸分違わず、私の、人間の頃の顔へと、変化しているのだ。
黒板には、おびただしい数の、赤子のものと思しき、血の手形が、びっしりと押されている。開け放たれた押入れの暗闇から、あの首のない教師の亡霊が、ぬらり、と現れた。その手には、一本の白いチョークが握られている。亡霊は、黒板に、私の人生を、私の記憶を、勝手に書き換え、上書きしていく。『幼き日、彼ハ神ノ声ヲ聞イタ』『青年ノ頃、彼ハ自ラノ宿命ヲ悟ッタ』。
「止めろ……! 私の人生を、弄るな……!」
私の絶叫が、図書室の窓ガラスを、甲高い音を立てて粉々に砕いた。飛散するガラスの破片、その一つ一つに、今まで忘れていた、あるいは、忘れさせられていた、真実の記憶が、走馬灯のように映し出された。そうだ、思い出した。全ての始まり、あの御嶽山の駐車場での夜。私は、ただの偶然で、あの鳥居を見つけたのではなかった。私は、自らの意思で、あの古びた朱い鳥居を、憎悪を込めて、蹴り倒していたのだ。なぜなら、私の魂の奥底は、知っていたからだ。私自身が、あの社に火を放った、最後の神主の、生まれ変わりであることを。
全ては、偶然ではなかった。私がこの場所に導かれたのも、憑かれたのも、全ては、私自身が過去に犯した罪の、果てしなき贖罪の儀式であったのだ。
『そうじゃ。それでよい』
老婆の声が、初めて、勝利を宣言した。
『さあ、最後の穢れを清めるがよい。最後の穢れは、お主自身じゃ』




