第6話:電波塔の虚声
三つ目の穢れが巣食う場所は、山間に打ち棄てられた廃校舎であった。コンクリートの階段の壁には、赤黒い錆なのか、乾いた血なのか判別できない液体で、「狐憑き」「ケダモノ」「出ていけ」という呪詛の言葉が、天井から床まで、狂人の日記のように延々と書き連ねられていた。二階の理科室の扉を開けると、そこに並んでいた数体の人体模型は、その全てが、まるで悪趣味な悪戯のように、真っ白な狐の面を被せられていた。
『ここで、罪なき童らが、生贄にされた』
老婆の声が、チョークの粉の匂いが染みついた空気に響く。それと同時に、正面の黒板に、まるで内側から滲み出すかのように、ぬらりとした血文字が浮かび上がった。
【昭和五十五年三月二十四日 卒業式ノ日 生徒拾七名 神隠し】
埃まみれの教師用のロッカーをこじ開けると、中から、カビの生えた古い手帳が転がり落ちてきた。震える指でページをめくる。そこには、子供の、拙い文字で、こう記されていた。
「――きつねさまを、おこらせてはいけない。きょう、そつぎょうしきのあと、みんなで、さいごの『きつねごっこ』をするんだ。おにになったこは、きつねさまの、およめさんになるんだって。ほんとうになったら、どうしよう――」
その手帳を読み終えた、まさにその時であった。背後から、くすくす、と、幼い子供たちの笑い声が聞こえた。振り向くと、そこには、いるはずのない、狐の面を被った、十数人の子供たちが、手をつないで輪になって、ゆっくりと回っている。その輪の中心には、一台の古びたアップライトピアノ。そして、その前に座り、鍵盤を叩いているのは、首から上が、ごっそりと失われた、教師らしき男の姿であった。彼が奏でるメロディーは、あの夜、私の車のラジオから流れてきた、あの不気味な童謡の、ひどく歪んだ変奏曲だった。
「やめてくれ……!」
私の絶叫が、天井裏に反響する。すると、天井の梁から、まるで巨大な蜘蛛の巣のように、無数の注連縄が、するすると降りてきて、私の首に、腕に、足に、絡みついてきた。締め上げられる苦痛。壁際に並んでいた、狐面の人体模型たちが、ぎこちない、関節人形のような動きで、一斉に踊り始める。私の右手が、注連縄に引かれるように持ち上がり、壁に設置された、古い消防ホースのノズルを、固く握り締めていた。
水。水で清めろ、と声が命じる。バルブが捻られ、濁った水が、凄まじい勢いで噴射された。水流が、黒板の血文字を叩く。すると、文字が、まるで熱湯をかけられたナメクジのように、じゅわっと沸騰し、その中から、真っ黒な骸骨の手が、ぬっと出現した。その手が、私の胸倉を掴む。いや、違う。それは私の胸を透過し、肋骨を砕き、内側から、激しく脈打つ心臓を、直接、鷲掴みにしたのだ。
骨が軋み、肉が裂ける、内側からの激痛。脇腹の、三つ目の呪文が、灼熱と共に消滅する。それと同時に、私の腰骨が、ごきり、と音を立てて裂け、臀部から、新たに、四本目の尾が、ぬるりと生え出した。
苦痛と変容の果てに、私は廊下へと転がり出る。その廊下の向こうから、ゆっくりと歩いてくる、梢の姿が見えた。彼女の耳は、もはや完全に、狐のそれのように長く尖り、制服のスカートの裾からは、私と同じ、三本の尾が、蛇のように揺らめいていた。彼女は、私を一瞥すると、ただ、にやりと、獣のように笑った。
***
もはや、日常は、私を拒絶していた。穢れを三つ清めた後のコンビニエンスストアは、私にとって、狂気の万華鏡以外の何物でもなかった。ハロウィンの装飾が施された陳列棚の鏡が、一斉に、私を見て、嗤っている。プラスチック製の、安っぽいカボチャやお化けの仮面が、次の瞬間には、全て、あの廃校舎で見た、能面のような白い狐面に変わっている。無意識に伸ばした私の手が、買い物用のレジ袋を、まるで薄紙のように貫通し、床に落ちたエナジードリンクのアルミ缶が、私の足元で、ぐしゃり、と音を立てて凹んだ。
「お、お客様……? 大丈夫でございますか……?」
若い女性店員の声が、まるで水の中から聞こえるかのように、低く、歪んで響く。恐る恐る、私は彼女の方へと振り向いた。そして、凍りついた。彼女の首が、ありえない角度、ほとんど百八十度、真後ろに捻じ曲がり、その、本来あるはずのない後頭部に、あの御嶽山の老婆の、皺くちゃの顔が、にたりと、浮かび上がっていたのだ。陳列棚の鏡、冷蔵ケースのガラス、防犯用のミラー、店内の全ての反射物が、一斉に狂った万華-鏡と化し、どこまでも続く、朱い鳥居のトンネルを、無限に映し出していた。
『穢れは、五つ。残りは、二つ……』
脳裏に響く声が、頭蓋骨を内側から破裂させんばかりに増幅する。ポケットのスマホが、再び灼熱を発し始めた。画面には、もはや私の操作を必要とせず、自動的に地図アプリが表示され、長野県北部の、とある山間部を、毒々しい赤色で染め上げている。その中心で点滅しているのは、「松本電波塔」という文字であった。その時、あの『憑狐互助会』の、既に削除されたはずのメッセージが、耳元で、勝手に再生され始めた。
「―――第三の穢れは、『贖罪の虚偽』……違う、それは罠だ……本当の三つ目は……『情報の冒涜』……電波塔……全ての偽りの言霊が集まる……」
それは、梢ではない、別の誰かの、絶望に満ちた声だった。
駐車場へと駆け出す私の足が、膝の関節から、まるで鳥類のように、逆方向へと折れ曲がった。激痛はない。ただ、世界が、一段低い場所から見えるようになっただけだ。傷だらけの車の運転席に乗り込む。獣の鉤爪と化した指でシフトレバーを握ると、それは、まるで生き物の尾のように、ぐにゃりとしなった。エンジンキーを捻る。咆哮したエンジン音は、もはや機械のそれではなく、数百の狐が一斉に天に向かって放つ、狂おしい遠吠えそのものであった。車体は、獣のように低く唸り、国道403号線の闇の中を、狂ったように疾走し始めた。もはや、私に、引き返すという選択肢は、どこにも残されてはいなかった。




