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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第15章:その山、車中泊禁止区域につき。――禁忌の鳥居をくぐった俺が、五つの穢れを祓うまで人間に戻れない呪い

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第5話:地下に眠る神域、ゴルフ場の亡霊たち

 夜のゴルフ場は、巨大な死体の解剖台であった。完璧に刈り込まれたフェアウェイは死者の肌膚のように青白く、月光を浴びてぬらぬらと光っている。バンカーの白い砂は、抉り出された骨粉を思わせた。その死体を冒涜するように、私、あるいは私の肉体を乗っ取った「何か」は、金属製のフェンスの前に立っていた。


 切断するのではない。私の指先から、黒く硬質化した爪が、まるで鞘から抜き放たれる刀身のように音もなく伸び、その先端が有刺鉄線に触れる。すると、焼き切れるような音と共に鉄線が飴のように溶け、人間一人が通れるだけの穴が空いた。私の手ではなかった。私の意思は、頭蓋という檻の中から、この一連の冒涜的な行為をただ傍観しているだけなのだ。


 深夜のコースに立ち込め、鼻腔の粘膜にまとわりつくのは、刈り取られた芝の青臭い匂いと、機械油の無機質な悪臭が混淆した、文明の死臭であった。梢――あの自らを「共犯者」と称した女は、少し離れた闇の中で、まるで夜の風景に溶け込むかのように静かに佇んでいる。


『……ここじゃ。かつて、わしらの社殿があった場所じゃ……』


 脳髄に響く老婆の声。それと同時に、瞼の裏に、古い絵図が焼き付けられる。それは昭和初期のものだろうか。色彩は褪せているが、現在の18番ホール、あの忌まわしいグリーンの真上に、紛れもなく壮麗な朱塗りの拝殿が建っている。境内では、緋色の袴をまとった巫女たちが、神楽鈴を鳴らしながら、厳かに舞を奉じている。その神聖な光景が、まるで硫酸をかけられた写真のように、じゅっと音を立てて焼け爛れ、現代の、人工的に捻じ曲げられた地形の幻影と重なった。


 私は、まるで夢遊病者のように、18番ホールのグリーンへと歩みを進める。ゴルフシューズのスパイクが残した無数の穴が、まるで皮膚病の痕のように芝生を覆っている。その中心に立ち、踵で強く地面を踏みしめた。すると、靴底の遥か下、分厚い表土と砂利の層のさらに奥深くから、ゴツリ、という硬質な感触が、背骨を駆け上がってきた。石畳だ。忘れ去られた神域の、最後の骸が、そこにはまだ埋まっている。


「……ああ……っ!」


 突然、両の膝が、内側から槌で砕かれたかのように折れた。前のめりに倒れ込み、両掌をグリーンにつく。その瞬間、芝生の下から、にゅるり、にゅるりと、土気色の無数の手が、まるで巨大な芋虫の群れのように湧き出してきて、私の足首を、手首を、掴んだ。それは、あの旅館跡で見た軍服姿の亡霊たちの手であった。グリーンを囲むマウンドの起伏が、巨大な墳墓のように盛り上がり、そこから、腐肉の臭いを纏った亡霊たちが、次々と這い出してくる。そのうちの一体の、鉄兜の下から覗く眼窩には、蛆が巣食っていた。


 そのおぞましい光景を網膜が捉えた束の間、私の右の眼球が、内側から破裂するかのような激痛に襲われた。視界が急速に血の赤に染まり、世界が明滅する。痛みと引き換えに、私の視覚は、人間のものではなくなっていた。赤く染まった世界の中で、私は、地面の下を透視していた。芝生の根の下、数メートルの土中に、夥しい数の生首が、まるで畑の作物のように埋まっているのが見えた。その全てが、苦悶の表情を浮かべている。


『清めよ。偽りの鎮魂を、喰らい尽くせ』


 声が命じる。私の右手は、地面に転がっていた、誰かがシャンクして打ち捨てたのであろう、泥塗れのアイアンヘッドを、鷲掴みにしていた。亡霊の一体が、銃剣を構え、私に突きかかってくる。私の腕は、その動きを、まるで蝿の飛翔を捉えるかのように正確に予測し、しなやかに動いた。ゴルフのクラブヘッドが、風を切り、軍用鉄兜を被った幽霊の頭蓋を、横殴りに打ち砕く。熟れた果実が破裂するような、湿った手応え。骨の破片が砕け散り、その一つが私の頬に突き刺さった。痛みはない。ただ、奇妙な、背徳的な快感が、全身を痺れさせた。


「やめろ! こんなのは、私じゃない……!」


 私の意識が、最後の力を振り絞って絶叫する。だが、身体は殺戮の舞踏をやめない。左手が、ポケットからライターを取り出し、湿った芝生に火を放った。ありえないことだ。だが、炎は、まるでガソリンでも撒かれたかのように、勢いよく燃え上がった。炎は、亡霊たちを、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、次々と呑み込んでいく。炎の中から、巨大な石狐の頭部の幻影が現れ、その顎で、亡霊たちの魂を噛み砕いている。肉の焦げる、甘ったるい匂い。それと共に、脇腹の呪文の、二つ目の文字が、焼き鏝を押し付けられたように、じゅっと音を立てて消滅した。


 炎が収まった後、グリーンには、黒い焼け焦げの痕だけが、巨大な呪印のように残っていた。月光が、私の影を地面に長く伸ばす。その影の腰からは、ゆらり、ゆらりと、三本の尾が、悪魔の嘲笑のように揺らめいていた。


 ***


 梢の住処は、街の古い雑居ビルの一室にあった。そこはアジトであり、巣であり、そして祭壇であった。彼女は慣れた手つきで、ゴルフ場で負った私の頬の傷を消毒している。彼女の指先は、人間とは思えないほど冷たかった。絆創膏の古びた箱に印刷された「桜井医院」というロゴが、この狂気の世界における、唯一の、滑稽なほど場違いな日常の残滓であった。彼女の細い首筋では、朱い呪文が、血管のように、どく、どくと脈動している。


「二つ、清めたわね。少しは『こちら側』に慣れてきたんじゃない?」


 彼女の冷たい指が、私の背中の傷――肩甲骨が裂け、毛皮が噴出した痕――を、まるで検分するかのように、ゆっくりと撫でた。ベランダから差し込む病的な月光が、壁一面に貼られた長野県一帯の地図を、ぼんやりと浮かび上がらせる。そこには、ゴルフ場の他にも、廃校、ダム、そして古い製糸工場とおぼしき場所に、血で描かれたかのような朱い印が、いくつも付けられていた。


 その時、テーブルの上に置かれた私のスマホが、痙攣するように震え始めた。ロック画面に、SNSの通知が、爆発的な勢いで表示されていく。「#御嶽山の怪光」「#ゴルフ場の怪火」といったハッシュタグと共に、何者かが遠くから撮影したのであろう、不鮮明な動画や画像が、凄まじい速度で拡散されている。投稿時間は、全て私が「穢れ」を清めていた時刻と、不気味なまでに一致していた。


「見せたいものがあるの」


 梢が、無表情にタブレット端末を差し出した。そこに映し出されていたのは、ゴルフ場の管理棟に設置された監視カメラの映像だった。時刻は、先ほど。炎が収まった直後だ。焼け焦げたグリーンから、ゆらりと立ち上がる人影。それは紛れもなく私であった。だが、その人影の耳は、悪魔のように鋭く尖り、背中からは、はっきりと、三本の獣の尾が伸びているのが確認できた。


『我々は、単に憑かれたのではない。選ばれたのよ。淀んだこの世の穢れを清める、新たな神の、尖兵としてね』


 老婆と梢の声が、完璧なユニゾンとなって、彼女の口から響いた。彼女は冷蔵庫の扉を開ける。その瞬間、私は見てしまった。彼女の後頭部の、髪の生え際が、まるで熟れた果実のようにぱっくりと割れ、その裂け目から、純白の、美しい毛皮が覗いているのを。彼女が冷蔵庫から取り出してきたのは、血の滴る生の鶏肉の塊と、そして、人間のものと思しき、数本の指が混じった、赤黒い氷漬けであった。


「さあ、食べなさい。それが、我々の糧であり、力となる」


 拒否しようとした私の顎が、意思に反して、がくりと開いた。歯が、ガチガチと、恐怖と飢餓で震える。彼女が差し出した、あの氷漬けの指を、私は、まるで熟れた果実を喰むように、貪り食っていた。冷たい、血の味。骨を噛み砕く、不快な音。視界の端で、梢の影が、完全に四つ足の獣の形となり、嬉しそうに床を跳ね回っていた。私は、人間としての最後の尊厳を、自らの歯で噛み砕いていた。



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