第4話:生肉を貪る夜、冒涜的変身と飢えの儀式
夜。再びコンビニの、人工的な光の洪水の中に私はいた。最初の穢れを「清めた」代償は、肉体の更なる変容と、人間性の急速な剥離、そして、この、内臓が裏返るほどの、冒涜的な飢餓感であった。手にした幕の内弁当は、私の目には、もはや食物とは映らなかった。鮭の切り身は腐肉と化し、その表面を無数の白い蛆が、気怠げに蠢いている。煮物は黒いヘドロと化し、米粒の一つ一つが、死んだ蟲の卵のように見えた。しかし、喉は、灼けるように渇き、胃は、自らの胃壁を消化し始めるのではないかというほど、激しく収縮を繰り返している。
『喰え。喰らうのだ。生の、血肉を』
陳列棚のガラスに映る自分の影が、にやりと笑ったように見えた。その影の耳は、悪魔のように鋭く尖り、腰のあたりから、ゆらりと、三本の尾が揺らめいている。
ああ、もう駄目だ。理性の最後の砦が、轟音を立てて崩れ落ちていく。私の手は、再び私の意思を裏切り、猛禽の鉤爪のように、生肉コーナーのプラスチックパックを引き裂いた。冷たい、生の鶏肉の塊。それを、私は、獣のように、剥き出しになった鋭い歯で、貪り喰っていた。筋を断ち切り、骨を砕く、湿った不快な音が、自分の顎から響いてくる。店員の、金切り声のような悲鳴が、どこか遠くで聞こえた。防犯カメラの、あの無機質な赤いランプが、血に飢えた狐の目のように、爛々と輝き、私を射抜いていた。
店の外へ転がり出し、薄汚い路地裏の闇の中へ駆け込む。胃の内容物を、全てアスファルトの上にぶちまけた。吐瀉物の中に、消化されなかった鶏肉の破片に混じって、夥しい量の白い獣毛が、ぬらぬらと光っているのを認めた。その時、ポケットの中で、スマホが、まるで心臓のように震えた。画面に表示されたのは、見知らぬ番号からの、短いメッセージ。
『助けて。私も、あなたと、同じ症状です』
メッセージには、地図情報が添付されていた。ピンが示しているのは、ここからそう遠くない、長野市街の一角だ。
『残り、四つ……』
老婆の声が、満足げに囁く。突然、空が裂けたかのように、冷たい雨が降り注いできた。路地の水溜りに映った私の影が、雨粒の波紋に揺れ、確かに、三本の尾を、誇らしげに揺らしている。近くの神社から、祭りの練習だろうか、単調な太鼓の音が響いてきた。商店街の赤い提灯が、雨に濡れ、まるで滴る血の色に染まって見えた。濡れた歩道橋の上で、あの旅館跡で見た、軍服姿の亡霊たちが、ずらりと並んで私を見下ろし、歯のない口で、嘲笑っていた。
***
メッセージが示した住所は、都市の再開発から取り残された、幽霊のような廃ビルであった。エントランスのガラスは割れ、壁には意味不明の落書きが、瘡蓋のようにこびりついている。401号室。錆び付いた鉄のドアの前に立つと、まるで招き入れられるかのように、ギイ、と軋んだ音を立てて、ひとりでに内側へと開いた。
室内に漂うのは、黴と埃と、そして、微かな獣の匂い。そこは、異様な空間だった。部屋の中央には、蛸足配線で数珠繋ぎにされた充電器が、巨大な蟲の巣のようにとぐろを巻き、そこから伸びた十数本のケーブルが、床に散らばるスマホへと繋がれている。そして、全てのスマホの画面が、あの御嶽山の、朱い鳥居の画像を、まるで祭壇の御神体のように、静かに映し出していた。壁には、スプレー塗料で、殴り書きのようにこう書かれていた。
『憑狐互助会』
「……遅かったじゃない」
部屋の奥の暗がりから、女の声がした。ゆらり、と現れた人影。私と同じくらいの年の、痩せた女だった。だが、彼女の首筋には、私と同じ、あの朱い呪文が、血管のように脈動しながら浮かび上がっている。そして、その瞳。彼女の瞳は、完全に、縦に裂けた猫の目になっていた。
「あなたも、あの駐車場に?」
私の問いに、女は答えず、ただ床に転がっていた古い新聞記事の切り抜きを、つま先で示した。それは、私がスマホで見たものと同じ、昭和五十四年の神主一家失踪事件を報じる記事だった。しかし、その隣には、ここ数年の間に起きた、御嶽山周辺での観光客の失踪事件を報じる、いくつもの小さな記事が、まるで衛星のように寄り添っていた。
『次は、「奪われた神域」を浄めてもらいましょうか』
女の唇が動いた。だが、そこから発せられた声は、老婆の、あのしわがれた声と、奇妙な二重音声になって響いた。彼女は、私に一枚の地図を差し出す。そこには、赤いマジックで、ゴルフ場のマークが大きく付けられていた。
その瞬間、部屋中に置かれた十数台のスマホから、一斉に、けたたましい狛狐の笑い声が鳴り響いた。窓の外を見やると、雨の上がった夜空に、無数の狐火が、まるで新たな星座のように浮かび上がり、都市の夜景を、不気味な青白い光で覆い尽くし始めていた。
私の左手が、私の意思とは全く無関係に、ポケットからカッターナイフを取り出していた。女もまた、表情一つ変えずに、自らのハンドバッグから同じようなナイフを取り出す。二本の刃が、まるで儀式のように交差する。そして、私の手は、女の手のひらを、女の手は、私の手のひらを、同時に、深く切り裂いた。痛みよりも先に、熱い血が溢れ出す。
「……共に、この穢れを、背負いましょう」
女が囁く。切り裂かれた互いの掌を、強く押し付け合う。混ざり合う二人の血から、ぶくぶくと泡が立ち、新たな、より複雑な形の呪文が、皮膚の上に浮かび上がってきた。
その時、私の背中に、今まで感じたことのない、翼が生えるかのような、凄まじい違和感と激痛が走った。肩甲骨が、内側から、巨大な力で引き裂かれていく。裂けた皮膚の隙間から、白い毛皮が、まるで噴出するように、勢いよく溢れ出した。窓の外に広がる都会の夜景の光が、収斂し、巨大な、一つの狐の形を、夜空に描き出していた。私と女は、もはや後戻りのできない、共犯者となったのだ。




