第3話:変容する肉体、穢れゆく魂、怪異の夜明け
明け方の、あの病的なまでに蒼白い光が、歪んだ硝子体を通して網膜を灼く。私はいつの間にか、国道沿いのコンビニエンスストアの、汚物と消毒液の匂いが混淆する便所の床で眠りこけていたらしい。身体を起こすと、関節という関節が、錆び付いた機械のように軋んだ悲鳴を上げた。昨夜の記憶は、断片的な悪夢の奔流となって脳髄をかき乱し、現実との境界線を曖昧に溶かしていく。ガードレールに抉られた車体の傷、フロントガラスに走る蜘蛛の巣状の亀裂、そして、脳の奥に今なおこびりつく、老婆のしわがれた囁き。
よろめきながら洗面台の前に立ち、己の顔を覗き込んだ瞬間、私は呼吸の仕方を忘れた。鏡の中にいる男は、私が知っている「私」では断じてなかった。それは、人間の貌をした、何かの「成り損ない」であった。
「……これは、夢だ。長い、長い悪夢を見ているに過ぎない」
しわがれた声が、狭い個室の壁にぶつかり、虚しく反響した。その声すら、まるで他人のもののように聞こえる。両のまぶたを、骨が砕けるほど強くこすりつけても、鏡の中の異形は消えなかった。切れ長に吊り上がった瞳は、もはや人間のそれではなく、夜行性の肉食獣のそれだ。琥珀色の虹彩の中心で、縦に裂けた瞳孔が、まるで生き物のように蠢いている。舌先で歯列をなぞると、鋭利な刃物のように尖った前歯の先端が、舌の表面を切り裂き、じわりと鉄の味が口内に広がった。
蛇口を捻り、冷水を顔に叩きつける。狂気を洗い流すかのように、何度も、何度も。だが、顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、更なる絶望であった。濡れた手の甲、その皮膚の下から、まるで黒い黴が繁殖するかのように、獣のそれと見紛う斑点模様の硬い毛が、無数に突き出しているではないか。それは紛れもなく、昨夜の悪夢の続きであり、そして、否定しようのない現実であった。
『早ようせえ。穢れを、清めに行くのじゃ』
脳髄に直接響く老婆の声。それは思考の形をした命令であり、抗う術はなかった。私の足は、まるで意思を持たない人形のように、ふらふらと駐車場へと向かっていた。破損した愛車の運転席に滑り込む。ハンドルを握る指が、見る間に間接一つ分ほど長く伸び、爪が、根元から急速に黒く、分厚く変色していくのを、私はただ呆然と見ていることしかできなかった。国道19号線。アスファルトの灰色い帯が、私を次の宿命へと引きずっていく。震える指でスマホを操作し、「御嶽山 稲荷神社」と打ち込む。検索候補の最上段に現れたのは、「祟り」「神隠し」「失踪」という、おぞましい単語の羅列であった。
その文字列を視認した瞬間、左の眼球が、内側から指で強く押し潰されるような激痛と共に、激しく痙攣した。スマホの液晶画面が、一瞬、血の海のように真っ赤に染まる。そして、そこに浮かび上がったのは、黄ばんだ、昭和五十四年付けの新聞記事の画像であった。
【御嶽山麓にて神主一家が集団失踪、居住社殿は不審火で全焼の謎】
不鮮明なモノクロ写真が、記事に添えられていた。焼け落ちた社殿跡と、その前に立つ二体の狛狐。そのうちの一体、口元が崩れた老婆のような石狐が、画像の歪みだろうか、邪悪に片目を瞑り、ウィンクをしたように見えた。
「―――あっ!」
声にならない悲鳴を上げ、スマホを助手席に放り投げる。それと寸分違わず、左の脇腹が、灼熱の鉄の棒を突き立てられたかのように、内側から爆ぜた。凄まじい痛みに身を捩り、シャツを捲り上げると、そこには、信じがたい光景が広がっていた。肋骨の形に沿って、皮膚がミミズ腫れのように隆起し、朱い呪印のような、見慣れぬ文字が五つ、まるで焼き印のように浮かび上がっているのだ。恐る恐る指先でそれに触れると、文字の一つ一つが、皮膚の下で蠢く寄生虫のように、脈動するのが分かった。
『五つの穢れを、その身で祓え。一つ、また一つと祓う度、お主は我らに近づこう』
脳内に響く声が、哄笑した。その直後、エンジンが咳き込むように停止し、パワーステアリングが死んだ。制御を失った車体は、まるで巨大な獣に突き飛ばされたかのように、鈍い轟音を立ててガードレールに激突した。フロントガラスの亀裂がさらに広がり、私の額を打ち付けた。額から流れ落ちる温かい血の匂いが、私の鼻腔を刺激する。その瞬間、私は、人間的な苦痛よりも先に、抗いがたいほどの飢餓感を覚えた。舌が、私の意思とは無関係に、ずるりと口から這い出し、傷口を舐め上げようと蠢き始めた。私は、私の中で目覚め始めた「何か」に、急速に侵蝕されつつあった。
***
車を棄てた。いや、車が私を棄てた、と言うべきか。ガードレールに突き刺さった鉄の骸を振り返りもせず、私は、まるで目に見えない糸に引かれるように、名もなき山道へと足を踏み入れていた。事故で折れたのか、左足首が異常な角度に曲がり、一歩進むごとに激痛が走る。だが、痛みを感じる「私」は、既にこの肉体の主導権を失いつつあった。身体はただ、脳髄に響く命令に従い、黙々と歩を進めるだけだ。アスファルトに残された私の足跡からは、点々と血が滴り落ち、おぞましい道標を描いていた。
『一つ目の穢れは、偽りの証言。偽りの鎮魂。偽りの英霊……』
老婆の声が、背骨を伝って囁きかける。その声に呼応するように、周囲の風景が、水彩絵の具のように滲み、歪み始めた。木々の梢が、苦悶に喘ぐ人間の腕のように捻じ曲がり、岩肌が、無数の髑髏の貌となって私を嘲笑う。
突如、視界が完全に暗転した。目を開けているはずなのに、瞼の裏側よりも深い闇に突き落とされる。そして次の瞬間、私の眼前に、全く別の時代の光景が、立体映像のように鮮やかに広がった。そこは、まだ焼け落ちる前の、荘厳な社殿の中であった。時代は、昭和二十年。終戦間際の、狂気と諦念が入り混じった夏。一人の軍服の男が、白装束を纏った痩せた神主の胸ぐらを掴み、札束の塊を押し付けている。
「……戦死した者どもを、この社の英霊として祀れ。国のために死んだ、誉れ高き御霊としてな。これは命令である」
「しかし……それは、神域を偽ることに……」
「黙れ! 神も仏も、今は陛下の御ためにあるのだ!」
軍服の男が吐き捨てるように言うと、社殿の隅に鎮座していた石狐の口から、どろりとした黒い煙が、まるで吐瀉物のように噴き出した。
幻覚が、霧のように晴れる。気が付くと、私は、朽ち果てた古い旅館の庭先に、呆然と立ち尽くしていた。錆びたブリキの看板には、かろうじて「旧陸軍関係者 療養宿泊所跡」という文字が読み取れる。足元の地面から、カタカタと、無数の軍靴がコンクリートを打ち鳴らす幻聴が響いてくる。その時、私の右手に、ずしりと重い感触があった。見ると、どこから現れたのか、柄の腐りかけた一本のシャベルが、まるで最初からそこにあったかのように、固く握り締められている。
「やめろ……何をさせる気だ……!」
私の喉が、最後の抵抗を試みる。だが、腕は、もはや私の脳からの指令を受け付けない。それは独立した生命体のように、勝手に動き出し、庭石の一つをこじ開けると、その下の湿った土を猛烈な勢いで掘り始めた。土の匂い、ミミズの千切れる感触、そして、次第に強くなる腐敗臭。やがて、シャベルの先端が、硬い何かに当たった。腐食した木箱だ。
腕が、それを乱暴に引きずり出す。蓋をこじ開けると、中から現れたのは、無数の染みがついた千人針と、黄ばんで脆くなった数多の遺書であった。遺書に書かれた文字が、まるで怨念を帯びた蟲のように蠢き、私の網膜に焼き付く。そこには、国への呪詛と、家族への謝罪、そして、犬死にさせられたことへの無念だけが綴られていた。
『ここに、偽りの英霊あり』
狛狐の声が、頭蓋の内側で宣告した。その瞬間、木箱の中から、ぼうっと青白い燐光が立ち上った。狐火だ。それは瞬く間に遺品に燃え移り、業火となって天を焦がした。紙が燃える乾いた音に混じり、女子供の泣き声のようなものが聞こえる。
燃え盛る炎の向こうで、私の脇腹の呪文の一つが、じゅっと音を立てて焼け焦げ、皮膚ごと消滅していくのが見えた。激痛と同時に、奇妙な全能感が身体を駆け巡る。それと引き換えに、私の顔の輪郭を覆うように、硬い獣の毛が、皮膚を突き破って、より一層濃く、密に生え揃っていく。爪先から、消えかけていた記憶の断片が、濁流のように逆流してきた。そうだ、思い出した。あの夜、私が御嶽山のあの駐車場へ向かったのは、決して偶然などではなかった。私は、何者かに、あるいは「何か」に、まるで屠殺場へ引かれる家畜のように、導かれていたのだ。




