第2話:血の涙を流す神使の視線
「22:17」
スマホの画面が、断末魔の火花を散らすように乱れ、数字が明滅した。充電残量は3%。エンジンをかけ、この呪われた場所から一刻も早く立ち去ろうとした、その時。
コン、コン、コン……。
助手席の窓を、爪で引っ掻くような音がした。反射的にそちらを向く。闇の中に、毛を逆立てた、太い獣の尾のようなものが一瞬見え、すぐに消えた。
「クソッ……!」
震える手でシートを倒し、寝袋の中に潜り込む。古びた布団特有の、樟脳と黴の匂いが鼻をついた。暗闇の中で耳を澄ますと、頭痛からくる耳鳴りが、いつの間にか変質していることに気づく。キーンという高い金属音と、ブーンという低い唸りが絡み合い、やがてそれは、意味のある言葉の断片へと変わっていく。
『……ずっと……ずっと、待っていた……』
老女のような、しわがれた声。それは鼓膜を震わせる音波ではない。脳の皺に直接、滲みこんでくるような、内側からの声だった。瞼の裏が灼けるように熱くなる。その刹那、額に、ぽつりと冷たい雫が落ちるのを感じた。雨漏りか? いや、そんなはずはない。跳ね起きて、運転席のライトを点ける。そして、絶句した。
車内の天井、その内張りに、赤黒い染みが、まるで地図のように広がっている。その中心から、ぽたり、ぽたりと、粘り気のある液体が滴り落ちていた。今度は頬に当たった。指でそれを拭うと、鉄錆のような生臭い匂いがした。血の匂いだ。
「誰か……誰かいるのか!」
私の絶叫は、狭い車内で虚しく反響した。その時、バッテリーが切れたはずのスマホが、不意に甲高いブルートゥースの接続音を鳴らした。そして、ノイズまみれのラジオ音声のような音の中から、途切れ途切れに、古い童謡が聞こえてきた。
「……きつね、きつね、こんこん……やまの、なか……」
ダッシュボードに目をやると、ETCカードの挿入口から、無数の歯型で噛み千切られたプラスチックの破片が吐き出されている。私の呼吸が、異常なほど白く濁っている。外気温は零下に近いのだろう。だが、首筋を伝う汗は止まらない。後部座席で、がさがさと何かが擦れる音がする。振り向きたくない。だが、首が、関節が軋む音を立てながら、ゆっくりと、ゆっくりと、意思に反して後ろを向いていく。
そこに、あった。後部座席の寝袋が、もはや人間が入っているとは思えないほど、異様な形で蠢いている。中から、人間の背骨が、乾いた枝のようにへし折れる音が響く。そして、ジッパーが、誰かが内側から開けるように、少しずつ、少しずつ、下がっていく。暗闇の裂け目から、まず現れたのは、病的に尖った耳。そして、爛々と琥珀色に輝く、二つの光点。
「あ……ああ……ああ……」
声にならない声が、喉で潰れる。私は恐怖のあまり、両手で自分の口を覆った。その手が、何か硬いものに触れた。フロントガラスに映った自分の顔を見る。そこにいたのは、もはや私ではなかった。
私の目が、爬虫類のように細く吊り上がっている。瞳孔が、猫のように縦に裂けていた。頬骨が、皮膚の下で軋む音を立てて隆起していく。歯茎が痺れ、前歯が、舌で触れるとわかるほど、鋭く、長く、尖っていく。
『憑いた』
脳裏に直接、あの老婆の声が響き渡った。後部座席の影は、いつの間にか消えている。鏡に映る、狐へと変貌していく自分だけが、絶対的な現実として、そこに存在していた。
***
指先が軋む。いや、爪が、指の肉を突き破って伸びていくのだ。スマホの黒い画面に反射する自分の瞳が、ゆらゆらと狐火のように揺れている。何度も瞼を擦ってみるが、その異様な光景は変わらない。むしろ、瞼の裏側から、鋭い爪で引っ掻かれるような激痛が走るだけだった。
『早よう、早ようせえ。穢れを、清めるのじゃ』
老婆の声が、命令となって鼓膜の裏側を鞭打つ。私の右手は、もはや私の意思の支配下にはなかった。それは独立した生き物のように動き、車のキーを捻り、エンジンを始動させた。ブルルン、というエンジン音は、もはや機械の音ではなく、喉を鳴らす獣の唸り声に聞こえた。ハンドルが、まるで蛇のようにぬるりと軋み、勝手に右へと切れていく。ヘッドライトが照らし出す闇の山道に、無数の青白い光点が浮かび上がっていた。狐火だ。それらが、まるで誘導灯のように、道の両脇で揺らめいている。
「帰りたい……家に、帰りたい……」
喉から漏れ出た声は、自分のものではないように甲高く、掠れていた。アクセルを踏み込む足首に、白い体毛が生え始めているのが見えた。ズボンの裾から、獣の毛が溢れ出し、運転席のフロアマットを撫でる。脇腹が、堪え難いほど痒い。シャツの上から掻きむしると、外套の下で、尾てい骨が、異物のように隆起し、伸びていくおぞましい感触があった。
カーブミラーに映る自分の横顔が、粘土細工のように崩れていく。頬骨はさらに鋭く突き出し、鼻先が、まるで鳥の嘴のように尖っていく。歯茎から絶えず溢れ出す唾液が、ステアリングホイールを濡らし、滑らせる。視界の端で、あの石段の狛狐が、四つ足で地面を蹴り、私の運転する車と並走しているのが見えた。
「ああああっ!」
恐怖の絶頂で、私はありったけの力でブレーキを踏み込んだ。車体が大きく蛇行し、ガードレールに激突する。凄まじい金属音と火花が舞う。その衝撃で、並走していた狛狐の石像が弾き飛ばされ、フロントガラスに叩きつけられた。蜘蛛の巣状に広がる亀裂の向こうで、血塗られた石の眼窩が、ぐるりと回転し、私を睨みつけていた。
『逃げられはせぬよ』
耳元で、湿った息遣いがした。助手席に、いつの間にか老婆が座っている。朽ちたような白髪に、山葡萄の葉を意匠した古びた簪。着物の合わせ目から、しわくちゃの狐の顔が覗いている。干からびたミイラのような手が伸びてきて、私の頬を撫でた。その爪先から、死と腐敗の匂いが立ち上る。
「離せ……離してくれ!」
振り払おうとした腕が、空中で硬直した。関節が、本来曲がるはずのない方向へと、ゴキリ、と音を立てて折れ曲がる。肘の裂けた皮膚から、白い毛が勢いよく噴き出した。老婆の歯のない歯茎が、蠕動しながら私の耳たぶに触れる。
『契約じゃ。この社の穢れを、五つ、清めるまで……お主は、わしらのものじゃ』
閃光が、頭蓋の内側を貫いた。洪水のように、見知らぬ記憶の断片が流れ込んでくる。朱い鳥居の下で行われる、陰惨な儀式。黒い羽織をまとった男たちが、幼い少女の首に縄をかけている。石狐の口から、血の雨が溢れ出している。昭和五十四年八月十五日、という日付。最後の神主が、狂ったように笑いながら、自らの社殿に火を放つ光景。
「うわあああああああっ!」
絶叫と共に、幻覚の洪水が霧散する。車内には誰もいない。老婆の姿はどこにもなかった。しかし、ダッシュボードの上には、数枚の山葡萄の葉が、まるで今しがた落ちたかのように散らばっている。エアコンの送風口からは、獣の、生臭い吐息が吹き出していた。そして、ナビゲーション画面には、御嶽山の禍々しい地図が浮かび上がり、五つの地点が、脈打つ心臓のように、赤く、赤く、点滅していた。
『さあ、行け』
私の唇が、私の意思とは無関係に、そう呟いていた。アクセルが、床まで踏み込まれていた。もはや、私は私ではなく、何か別のものへと、成り果ててしまったのだ。




