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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第15章:その山、車中泊禁止区域につき。――禁忌の鳥居をくぐった俺が、五つの穢れを祓うまで人間に戻れない呪い

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第1話:十三段目の呪縛と歪んだ神使

「第15章:その山、車中泊禁止区域につき。」は、山奥の車中泊スポットと、立ち入り禁止の鳥居を舞台にした短編ホラーです。

禁忌の鳥居をくぐった主人公が「五つの穢れ」を祓い終えるまで人間に戻れないという呪いに巻き込まれる、“山・車中泊・心霊スポット”系がお好きな方向けの話になっています。


 山肌を舐める夕闇が、フロントガラスの油膜に絡みつき、赤黒い粘液のように垂れていく。それはまるで巨大な生き物の舌が、このブリキの函ごと私を呑み込もうとしているかのようであった。エアコンの送風音だけが、鼓膜の奥で死にかけの蟲の羽音のように、単調な律動を繰り返している。私は死んでいるのだ、と唐突に思った。あるいは、これから死ぬのか。


 シートのリクライニングを倒しながら、滑り落ちていく意識の断片を繋ぎ止めようと、汚れた液晶画面に視線を落とす。スマホの地図アプリが示す標高二千メートルの数字だけが、この世ならざる場所における唯一の現実的な座標であった。御嶽山の八合目駐車場 -いつからか車中泊を好む倒錯者たちの間で、親しみを込めて、あるいは自虐を込めて「魔境」と呼ばれるようになった場所だ。


「今夜は此処が私の墓標か」


 独りごちた声は、乾いた喉に張り付いて音にならなかった。愛用のデジタルカメラを、古びた革の鞄へと押し込む。その無機質な塊だけが、かつて私が風景を「切り取る」側にいたことの証明だった。窓を指三本分の幅だけ開けると、濃密な冷気が刃物のように車内へ侵入してきた。それは単なる冷気ではない。松脂の甘い香りと、動物の屍骸が土に還る際の腐臭、そして湿った苔の匂いが混淆した、この山特有の芳香 -否、瘴気であった。


 インスタグラムの濾過された写真では決して伝わることのない、生の自然が持つ冒涜的なまでの生命力。その匂いを吸い込む度、私の左のこめかみの奥で、何かが疼き、痙攣する。今朝から続く、この偏頭痛。それは痛みというよりは、頭蓋の内側から見知らぬ誰かが扉を叩いているような、異質な感覚だった。鎮痛剤の空き箱を、まるで罪の証拠でも隠すかのようにグローブボックスの闇へ放り込み、代わりに温くなった缶コーヒーを呷る。アルミ缶の冷たさが、じっとりと汗ばんだ掌の皮膚感覚を鋭敏にした。


「19:34」


 ダッシュボードに置かれたスマホの液晶が、青白い燐光を放って時刻を告げた。その数字が、何かの忌まわしい刻印のように見えたのは気のせいか。ふと、画面の隅に目をやると、さっきまで三本立っていたはずの電波を示すアンテナが、一本残らず消滅していた。それだけではない。満充電に近かったはずのバッテリーアイコンが、まるで悪性の腫瘍に侵された細胞のように、見る見るうちに赤く変色し、点滅を始めている。背骨の髄を、氷の針で撫でられたような悪寒が走った。山岳地帯ではよくあることだ、と理性が囁く。磁場の乱れ、気象条件の変化。だが、私の本能は、理性の囁きを嘲笑うかのように、警鐘を乱打していた。


 深呼吸を一つ。吐き出した息が、車内の空気を白く濁らせる。外に目を遣った、その時だった。駐車場の最も奥、闇が最も深く澱んでいる場所に、ぽつりと朱い影が揺らめいているのが見えた。鳥居だ。闇の中に滲んだ血痕のような、鮮やかすぎる朱色。その先には、苔に覆われた古い石段が、まるで獣の背骨のように、山の胎内へと誘っている。何かに憑かれたように、私はカメラを再び手に取り、車のドアを開けていた。


 一歩外へ出た瞬間、世界から音が消えた。今まで耳についていたエアコンの送風音も、松葉が風に触れ合う音も、遠くで聞こえていたはずの渓流のせせらぎも、全てが分厚い真空の壁に吸い込まれたかのように、絶対的な沈黙が支配していた。自分の心臓の鼓動だけが、耳朶の裏で巨大な太鼓のように鳴り響いている。


「……稲荷…神社か」


 錆び付いて傾いた木の札が、辛うじて鳥居の脇に立っていた。そこに書かれていたであろう神社の名前は、歳月の爪に削り取られ、辛うじて「稲荷」の二文字だけが、怨念のようにこびりついている。石段を登る足が、私の意思とは無関係に速まっていく。一段、また一段と登るごとに、空気が粘性を増し、肺にまとわりついてくるようだった。カメラのレンズキャップを外す指先が、汗でぬめり、上手く動かない。


 ***


 十三段目。きっかり十三段目で、私の足は縫い付けられたように動かなくなった。そこはかつて本殿があった場所なのだろう。今はただの平らな空間が、虚無のように広がっているだけだ。しかし、その虚無の中心に、二つの歪んだ影が、異様な存在感を放って鎮座していた。石像だ。狐の。だが、私が知っている神社の狛狐とは、その成り立ちからして根本的に異なっているように思われた。


 片方は、病的に伸長した耳朶の先端から黒い苔を滴らせ、まるで長い年月をかけて膿を流し続けているかのようだ。もう片方は、口元が人間の老人のように皺くちゃに崩れ落ち、歯茎を剥き出しにしたまま硬直している。その皺の一つ一つに、蛭の子が蠢いているのではないかと錯覚するほど、その造形は生々しかった。そして両方の狐とも、眼球があるべき部分は深い窪みとなり、そこに溜まった雨水と苔が、まるで血の涙を流し続けているように見えた。


「気の、せいか……」


 乾いた喉から絞り出した声が、音のない空間に吸い込まれて消える。カメラを構え、ファインダーを覗き込む。その瞬間、左の眼球の奥で、何かが軋むような激痛が走った。視界が急速に赤く染まっていく。瞼の裏を、無数の焼けた針が這いずり回るような感覚。ぐらりと世界が傾ぎ、私は石段から転がり落ちそうになるのを、必死で苔むした石にしがみついて堪えた。指の間に、冷たい粘液のようなものがまとわりつく。それは苔の水分だろうか。それとも、この石そのものが流す体液なのだろうか。


 這うようにして振り返った。そして、呼吸が凍りついた。さっきまで、二体の狛狐は真正面、つまり本殿跡の虚空を見つめていたはずだ。だが今、そのうちの一体、口元が崩れた老婆のような狐が、その首を九十度近く捻じ曲げ、虚ろな眼窩で、はっきりと私を捉えていた。


「……やべえ……早く、戻らないと」


 全身の血が逆流するような恐怖に突き動かされ、私は石段を駆け下り始めた。だが、おかしい。登ってきた時は十三段しかなかったはずの石段が、下りても下りても終わらないのだ。十五、二十、三十……膝ががくがくと震え、自分の身体ではないように言うことを聞かない。


 駐車場に転がり込むようにしてたどり着いた時、西の空に、奇妙な星が一つ輝いているのに気が付いた。それは赤く、心臓の鼓動のように、ゆっくりと、しかし確実に脈打っている。カメラを構えようとしたが、レンズが内側から、まるで誰かの吐息で曇ったかのように真っ白になっていた。指で拭おうとすると、ガラスの表面に、白く、細長い、人間のものとは思えない指紋が付着しているのが見えた。


 車内に逃げ込み、全てのドアにロックをかける。後部座席に無造作に放り込んであった寝袋が、まるで誰かが中で呼吸しているかのように、僅かに膨らんでいるように見える。瞬きをする度に、視界の端を白い影が横切る。気のせいだ、疲れているのだ。そう自分に言い聞かせようとするが、もはや理性は恐怖の前に無力だった。頭痛が、前頭葉を抉り出すような暴力的な痛みに変わっていた。



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