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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第14章:腐れ柿の季節に、それは啜る

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第2話:逆流する川

 獣医が死んだのは九月の第一週だった。役場から派遣された五十代の男は、死んだ山羊を検査する際に突然痙攣を起こし、救急車で搬送される途中で心臓が破裂したという。母がその話を聞いた時、床に落とした茶碗が割れ、破片が奇妙な五芒星の形に散らばった。


「あの人は……あの穴を見たのよ」


 母が震える指で自分の首筋を撫でる仕草をした時、父が怒鳴りつけた。「バカな!たまたま持病が悪化しただけだ」だが父の手は、仏壇の線香を立てようとして三度も火を落としていた。


 その夜から父が変わり始めた。毎晩のように「見回り」と称して裏山に入り、朝方に泥だらけで帰宅するようになった。ある朝、僕は父が井戸端で靴を洗っているのを目撃した。長靴の底から、赤黒い毛の束が排水口に流れていくのが見えた。


 学校の理科の授業で、担任の田辺先生が突然解剖学の話を始めた。「生物の体内には約5リットルの血液が存在します」と言った時、教室の奥で誰かがクスクス笑った。振り返っても誰も笑っていない。窓ガラスに映った僕の後ろに、首の長い影がゆらめいていた。


 帰り道、健太が真っ青な顔で近づいてきた。「おい、見ただろ?あの牛舎……」彼の手首には三本線の掻き傷が新鮮に光っている。「お前んとこの裏山、絶対何かおかしい。俺の親父が役場で聞いたんだけどな、この一週間で家畜の被害が十七件も……」


 突然、小梅の歌声が路地裏から響いてきた。『かごめかごめ』のメロディーだが、歌詞が違う。「夜の森で 三本の指 月を刺して 血を飲む」健太が卒倒しそうになり、僕の腕をつかんだ。「あの声……あの声は人間か?」


 家に駆け込むと、小梅が縁側で折り紙をしていた。赤い折り紙で作った不思議な生物 -三本足のカラスか、あるいは翼のある猿のような形。彼女の膝元には、本物の鳥の羽根が散らばっている。窓の外でカラスの群れが不気味に鳴き交わしていた。


「お兄ちゃん、これあげる」小梅がにっこり笑って折り紙を差し出した。受け取った瞬間、指先に鋭い痛みが走った。折り紙の縁が剃刀のように薄く、血が滲んで赤い模様が浮かび上がる。


 その晩、僕は父の後を追った。懐中電灯も持たずに裏山に入る父の背中は、まるで闇に溶け込む影のようだった。腐れ柿の匂いが濃厚になる斜面を登りきると、父は突然立ち止まった。眼前に広がるのは、町を見下ろす断崖だった。その直下で、川が逆流していた。


 月光に照らされた川面が銀色に渦巻き、本来の流れとは逆方向に蠢いている。父が崖縁にしゃがみ込み、何かを呟き始めた。「……償いの時が来た……血で血を洗う……」


 ズボンのポケットから取り出したものが、僕の息を凍りつかせた。母の裁縫箱から失くなっていた銀の糸切りばさみ。父がそれを自分の左手首に当てた時、僕は思わず叫びそうになった。しかし次の瞬間、背後で冷たい吐息が首筋にかかった。


 振り向かずに走り出た。足元の土が崩れ、腐った柿の実を踏みつぶす。何か柔らかいものが肩に当たり、振り払おうとした手が蜘蛛の巣に引っかかる。だがその糸は異常に粘り強く、体温で溶けるどころか逆に締め付けてくる。


 ようやく家に辿り着くと、母が仏壇の前で祈っていた。線香の煙が渦を巻き、先祖の写真が全て裏返されているのに気付いた。「お母さん、父さんが……」僕の声に母が振り向いた顔には、両目に濁った膜が張っていた。


「早く寝なさい」母の声は二重に響いた。「明日は大事な日よ。お父さんが『あちら様』をお連れになるから」


 明け方の夢で、僕は井戸の中を覗き込んでいた。水面に映った自分の顔が徐々に変化し、耳が尖り、目が細長く吊り上がる。喉の渇きを覚えて目を覚ますと、枕元に小梅が置いていった柿の実が腐敗熱を発していた。皮が破れ、中から三本の白い指がにゅるりと伸びている。


 学校をサボって裏山を探検した。健太の言った牛舎は、確かに廃墟になっていた。錆びた鎖が地面に延び、その先に干からびた牛の骨が転がる。壁には無数の引っ掻き跡。その高さは大人の背伸びした位置まで続いている。


 突然、獣臭い風が吹き、頭上の杉林がざわめいた。枝々の間を何かが素早く移動する音。三本指の手形が苔むした岩に残され、その中央に穴が空いていた。近づくと穴から血の匂いが立ち上り、アリの列が渦巻きながら落下していく。


 夕暮れ時、父が大きな麻袋を担いで帰宅した。中から鈍い物音がする。「ついに捕まえた」父の笑顔は頬肉が不自然に引きつり、歯茎から血が滲んでいた。「これでお前たちも理解できる」


 母がすすり泣きながら台所の包丁を研いでいる。小梅は麻袋の周りを踊るように歩き回り、鼻歌を歌っている。「月夜の晩に 針千本 飲み干した血は 甘い蜜」


 僕は物置で祖父の狩猟用ライフルを見つけた。銃身に柿の蔓が巻き付き、銃口から黒い樹液が垂れている。外で遠吠えのような音が響き、同時に家中のガラス窓が共鳴して軋んだ。


 夜中、物置から金属音がした。麻袋が空になっている。父の寝床には人影がない。小梅の部屋からは、複数の笑い声が漏れている。二階へ向かう階段の途中で、壁に新たな染みが広がっているのに気付いた。血の滲みのように見えるが、触れると冷たく、銀色の鱗粉が指に付着する。


 裏庭で物音がした。父が井戸に向かって跪き、肩を震わせている。近づくと、父は井戸の鎖を引き上げていた。ずぶ濡れの麻袋が現れ、その口がゆっくりと開く。中から現れたのは――



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