第2話:歪みの始発点
翌朝、目覚めたのは自室のベッドの上だった。昨夜のことは、悪夢か極度の疲労による幻覚だったのだろうか? そう願いたかった。しかし、洗面所の鏡に映った自分の顔が、全てを否定した。
目の下には深いクマ。頬は不自然にこけ、数日間も眠らずに働き続けたかのような憔悴ぶりだ。何より異様だったのは、鏡の中の自分と、現実の自分の動きが、ほんの一瞬、微妙にずれているような気がしたことだ。瞬きをするタイミング、口元の動き…。まるで映像の同期が狂っているかのようだった。
配達センターに向かう道すがら、世界の歪みは加速していた。信号機の青が、一瞬だけ深い藍色に変わり、次の瞬間には緑に戻る。歩道を歩く人々の足元の影が、不自然に長く伸び、時折、本体とは無関係に蠢く。ビルの壁面のタイルの模様が、見つめていると、ゆっくりと渦を巻き始める。現実のフィルムが少しずつ焼け落ち、その下から異形の下地が覗いている気がした。
「おい、藤田。大丈夫か? 顔色が死人みてえだぞ」
先輩運転手の声が遠くから聞こえる。
「…ああ。ちょっと寝不足で」
笑顔を作ろうとするが、顔の筋肉が思うように動かない。他人の顔を借りているような感覚だ。今日の配達リストを受け取る手が震えている。目を凝らす。リストの一番下、昨日と同じ「藤堂」の名前が、インクが滲むようにぼんやりと記されている。差出人欄は相変わらず空白だ。胃が締め付けられる。逃げたい。しかし、足は自然と軽ワゴンへと向かっていた。
あの「もの」は、まだ車の中にいるのだろうか? その可能性に怯えながら、恐る恐る助手席のドアを開ける。車内は空っぽだった。ほっと息をつく。しかし、その安堵も束の間、後部座席のシートに、不自然なほど深い「へたり」と、薄く黒い、油のような染みが浮かんでいるのを見つけてしまった。
夕刻、避けようとしても避けられない引力に引きずられるように、僕は再びあの忌まわしい新興住宅地へと車を走らせていた。ナビの画面は、またしても意味不明な模様で埋め尽くされ、電波は完全に死んでいる。空は鉛色に重く、雨の匂いが漂う。
道は昨日よりもさらに荒れ、まるで僕が通るのを拒んでいるかのようだ。車のライトが照らす先で、路傍の草が、風もないのに一斉に同じ方向へ、くねくねと揺れている。
藤堂家の前には、昨日配達したはずのあの細長い木箱が、無造作に置かれたままだった。しかし、明らかに変化があった。
木箱の蓋が、ほんの数センチ、ずらされている。その隙間からは、深い闇と、例の腐った土のような匂いが、より濃厚に漂ってくる。そして、その蓋の上には、黒い、濡れたような足跡が、玄関に向かって続いている。昨日はなかった足跡だ。それは人間のものとは思えなかった。不自然に長く、指の形が判然としない…。
「…か…え…ろ…」
あの声が、またしても脳裏に直接響く。
昨日よりもはっきりと、切実に。風ではない。声の主は、間違いなく僕のすぐ背後にいる。振り返る勇気はない。全身の毛が逆立つ。冷気が首筋を這い上がる。ゆっくりと、ゆっくりと首を回す。視界の端に映る。後部座席の窓ガラス。そこに、歪んだ、黒い影が映っている。顔らしき部分には、目と呼ぶには細長すぎる、光を全く反射しない二つの裂け目が浮かんでいる。それは、僕を凝視していた。
逃げなければ。本能が叫ぶ。しかし、足が地面に釘付けだ。あの木箱の隙間から、何かがゆっくりと、粘り気のある黒い触手のようなものを伸ばしている。それは地面を這い、僕の足元へと向かってくる。
視界全体が激しく歪み始める。周囲の家々の輪郭が溶け、地面が波打つ。空の色が、ありえない紫色へと変容していく。あの「くねくね」が、この場所で、今、顕現しようとしている。そして僕は、その最初の餌食になるのだろうか? 恐怖が喉を塞ぎ、叫び声さえも出ない。触手が、僕の足首に、冷たく、異様な生感触で絡みついた。