第7話:最後のルール崩壊、絶望の連鎖
儀式から三日目の夕方、佐倉悠人(25歳、契約社員)は、自室のベッドの上で、極度の疲弊と不安に苛まれていた。彼はこの三日間、硬貨から伝わった「シネ」の激しい震えと、紙を削る音が耳から離れず、まともな睡眠が取れていなかった。彼は契約社員としての業務にも集中できず、常に誰かに見られているような視線を感じていた。彼の神経衰弱はピークに達しており、コックリさんを行った後の「不調や悪夢」という典型的症状が、彼の精神を完全に蝕んでいた。
悠人がポケットに硬貨を押し込んでから、今日で丸二日と半日が経過していた。残された時間は少ない。コックリさんを終了させるための絶対的なルールの一つが、「使用した10円玉を三日以内に使わなければならない」というものだった。この硬貨を使わずに三日目を終えれば、呪いが確定するという強迫観念が、悠人の心を支配していた。
悠人は重い体を引きずり起こし、呪いの媒体である10円玉を使うため、茜のアパート近くのコンビニへ向かおうとした。硬貨を使ってしまえば、この呪縛から解放されるかもしれない――そう微かに希望を抱きながら、ズボンのポケットに手を入れた。
だが、ポケットは空虚だった。
「――っ」
悠人の心臓が激しく脈打った。彼は何度も何度もポケットの裏地をまさぐる。昨日までは確かに、あの体温を持っているかのように生暖かく感じられた硬貨が、ポケットの奥深くにあったはずだ。しかし、どこを探しても、硬貨の冷たい感触も、重さもない。
パニックが悠人を襲った。彼は部屋の中を狂ったように探し回る。床、ベッドの下、脱いだ服の中。どこにもない。硬貨は、最後の最後に、彼から解放の手段を奪い去ったのだ。
「どこだ、どこに行った!?」
硬貨を紛失したという事実は、悠人の理性を一気に崩壊させた。硬貨を使えないということは、呪いから逃れる術がないことを意味する。彼は、儀式の不完全な終了(「トマルナ」の拒否)に加えて、硬貨の即時使用というルールも破ったこと、さらに紛失という最悪の結末を迎えたことで、自分自身を自己呪縛の永久的な牢獄に閉じ込めたことを悟った。
悠人は、この状況を引き起こしたのが自分自身ではないと信じたいがために、すぐに茜(24歳、フリーター)に連絡を取った。
「茜!硬貨がないんだ。俺のポケットから消えた。お前、何か知らないか?あの時、お前が持っていったんじゃないだろうな?」
電話の向こうの茜の声は、二日目よりもさらにか細く、精神的に追い詰められているのが明らかだった。
「え……硬貨?あなたこそ、何か隠してるんでしょ?ねえ、あの硬貨を動かしたのは、あなたの潜在意識なんでしょ?全部、あなたが私たちを呪ったんでしょ!」
悠人と茜の間の不信感は極限に達していた。茜は悠人の故意の操作(他意識介入説)を真剣に疑い、悠人は茜が自分を陥れようとしている(あるいは低級霊に憑依されて操られている)のではないかと疑った。彼らの負の感情は、コックリさんが引き起こす集団ヒステリーの典型的な帰結となっていた。
***
悠人は怒鳴った。「俺は動かしていない!動いてたのはお前の享楽的な好奇心と、詩織の極度の不安のせいだ!硬貨を三日以内に使わなきゃいけないんだ!お前が見てないか、それだけ答えろ!」
茜は電話の向こうで、すすり泣くような声を上げた。そして、一瞬の沈黙の後、絞り出すような声で信じがたい告白をした。
「……硬貨、私、知ってるよ。あなたがポケットにしまう前に、床に落ちてたのを、私が拾ったの」。
悠人の頭が真っ白になった。彼が儀式を強行終了させた際、硬貨をポケットに押し込んだのは、混乱による不完全な手順だったが、実際にはその場に落ちていたというのだ。
「なんでそれを早く言わなかったんだ!」悠人は絶叫した。
「怖くて……怖くて使えなかったのよ!」茜は泣き叫ぶ。硬貨は、彼らの潜在意識、恐怖、悪意が凝縮された呪いの媒体そのものとなっていた。茜もまた、悠人同様に硬貨を三日以内に使うという最後のルールを破り、呪いを自ら確実なものにしていたのだ。
悠人は自分の理性の崩壊を抑えながら、茜に問いただした。「今、どこにあるんだ?それを今すぐ使え!まだ間に合うかもしれない!」
茜は、硬貨がまだ手元にあることを認めた。しかし、彼女の応答は急に途切れがちになり、恐怖で言葉にならない。
その時、悠人は電話越しに、茜のアパートの背景から、微かな、しかし異常な音を聞いた。
カチッ、カチッ、カチッ……
それは、硬貨がフローリングの床を叩くような音だった。一定のリズムではなく、無作為で、まるで硬貨が不規則な跳ね方をしているような音だ。
「おい、何の音だ?今、お前の部屋で何が起こってる!」
茜は嗚咽を上げ、震える声で何かを言おうとした。「……あれが、あれが動いてるのよ!誰も触ってないのに!キツネの目が、私を見てる!」。彼女の心霊現象説への盲信が、現実を浸食し始めていた。
カチカチカチカチッ!
硬貨を叩く音は、急激に加速し、まるで硬貨自体が紙を削りながら高速で移動していたときのように、憎悪を表現するかのように激しさを増していった。それは、不覚筋動では説明できない、制御不能な悪意の顕現だった。
「悠人……っ、オ……」
ガシャーン!
茜の悲鳴は、ガラスが割れるような激しい破壊音と共に、唐突に途切れた。電話は完全に切断された。悠人の耳には、ただ電話機から漏れる電子的なノイズだけが、遠くの断末魔のように響いていた。




