第5話:帰らない客――残留する悪意と自己呪縛
詩織が悲鳴とともに部屋を飛び出し、重いドアが閉まる音だけが、硬貨が紙を削る甲高い音の合間に響いた。佐倉悠人と五十嵐茜の指先は、依然として10円玉の上に乗せられたままだが、硬貨は人間の指が作り出せる「不覚筋動」の範疇を完全に逸脱した異常な震えと往復運動を続けている。その動きは、彼らの集団的なパニックとヒステリーを増幅させる触媒として機能していた。
「シネ!シネ!シネ!」
紙が破れんばかりの勢いで文字盤を往復する10円玉は、もはや単なる心理ゲームの道具ではなく、悪意に満ちた実体へと変貌していた。
悠人は全身が硬直するような恐怖に襲われていたが、この状況を終わらせるためには、儀式の手順を踏むしかないと、かろうじて理性を保とうとした。コックリさんを終了させるには、「コックリさん、コックリさん、どうぞお戻りください」とお願いし、硬貨が「はい」と答えた後に鳥居まで戻ってくるのを待たなければならない。
悠人は震える声を絞り出し、茜と二人で必死に唱え始めた。
「コックリさん、コックリさん、どうぞお戻りください!」
茜もまた、興奮が完全に恐怖へと転じ、涙を流しながら同じ言葉を繰り返す。「どうぞ、お戻りください……!お願い、帰って……」
硬貨は、数秒の間、往復運動をピタリと止めた。二人は一瞬、安堵の息を漏らしかけた。しかし、その静止は、彼らの希望に応えるものではなかった。硬貨は鳥居(⛩)へと向かうどころか、紙面の空白部分、五十音表の隅へとゆっくりと滑り始めた。
悠人の指を通して伝わる硬貨の動きは、まるで強い抵抗を示しているかのようだった。硬貨は文字盤の端に達すると、再び文字を指し示し始めた。その文字は、明確な意思を持って綴られた、帰還を拒むメッセージだった。
「ト」「マ」「ル」「ナ」
(止まるな / Stay)
その文字が完成した瞬間、悠人と茜は絶望に打ちのめされた。コックリさんは、彼らの呼びかけを無視し、儀式の終了を拒否したのだ。ルール上、「コックリさんが帰ってくれない場合は、帰るまでお願いをする」ことになっているが、硬貨が発する悪意の圧力は、彼らの精神力を遙かに凌駕していた。
悠人は、このまま一晩中、硬貨に指を添え続け、呪詛の言葉を綴らされるのではないかという永続的な恐怖に囚われた。彼らは、遊び半分で「見えないもの」を呼んでしまったが、その「客」は、帰るつもりがないことが確定したのだ。
***
硬貨が「トマルナ」と綴り、その上に留まったままで動かない状況が、数分続いた。精神の崩壊寸前にある茜は、もはや儀式の手順を思い出すこともできない。
悠人は、このままでは本当に精神に異常をきたしてしまう、と直感した。逃げ出した詩織のように、指を離せば「呪われる」というルールがある。しかし、硬貨が自ら鳥居へ戻る意思がない以上、悠人は半ば儀式の破壊者となる道を選ばざるを得なかった。
「もういい……終わりだ」
悠人はそう呟き、残る力を振り絞って、硬貨を無理やり鳥居の位置まで押し戻した。茜は抵抗することもなく、ただ硬貨の動きに引きずられているだけだった。
硬貨が鳥居の真上に戻ったのを確認すると、悠人は形式的なお礼を口にした。
「コックリさん、ありがとうございました」
そして、全員で指を硬貨から離した。離れた硬貨は、紙面の上で微動だにしない。まるで、彼らの指の重みから解放された途端、存在自体が希薄になったかのようだった。
儀式の終了には、いくつかの厳格なルールがある。一つは、文字盤を細かく48片に破り捨てること。悠人は震える手で、儀式に使ったノートの裏紙を手に取った。憎悪の連鎖を綴った「シネ」の文字や、「タナカリサ」の名前、そして鳥居が描かれた紙を、恐怖を振り払うように、無心で細かく破り続けた。破片は床に散乱し、その数はおおよそ48片を超えていたはずだ。
そして、最も重要なルールの一つが残されていた。それは、使用した硬貨(10円玉)を三日以内に使わなければならないというものだった。
悠人は、硬貨を手のひらに乗せた。冷たいはずの硬貨が、まるで体温を持っているかのように生暖かく感じられた。この硬貨に指を乗せていた間、彼らの潜在意識、恐怖、そして悪意が凝縮されたのだ。悠人には、この硬貨が呪いの媒体そのものに感じられ、すぐに使うどころか、直視することすらできなかった。
「明日にしよう……」
彼は硬貨をすぐに使うというルールを破り、恐る恐るポケットの奥深くに押し込んだ。この不完全な終了、特に呪いの媒体を自身の身近に留めたことが、その後の破滅的な結末を決定づけることになった。悠人にとって、硬貨は「帰らない客」の形見であり、彼自身の自己呪縛の象徴となったのだ。




