第4話:憎悪の降臨――最悪の呪詛「シネ」
茜の興奮は止まらなかった。詩織の深刻な質問に、硬貨が明確な答えを出したことで、彼女は完全にこの「霊」の存在を信じ切っていた。彼女は、この霊的な存在(狐狗狸)が自分たちの未来を支配しているかのように感じ、その力を試さずにはいられなかった。
「よし、コックリさん、コックリさん」。茜は前のめりになり、興奮のあまり硬貨を強く押さえつけているかのように見えた。「私たちの将来、どうなる?何か、希望が持てるようなことを教えてよ!」
悠人は、全身の筋肉が強張るのを感じた。彼が内心で切実に望んだのは、「幸せ」や「成功」といった、誰もが納得し、儀式を円満に終了させられる言葉だった。しかし、硬貨は悠人の願いを裏切るかのように、静かに、だが執拗に、五十音盤の上を滑り始めた。
硬貨は、ゆっくりと文字を選んでいく。
「シ」
悠人の心臓が跳ね上がった。詩織の指が、恐怖で痙攣しているのが伝わってくる。 「シ……仕事?」 悠人は、咄嗟に希望的な解釈を頭の中で作り出そうとした。
しかし硬貨は止まらない。次の文字へと、迷いなく移動する。
「ネ」
「シ」「ネ」。
「死ね?」 茜が呆然とした声で復唱した。冗談半分で始めたはずの降霊術が、彼らの将来に対する問いかけに、全否定の呪詛で返したのだ。
その瞬間、部屋の生暖かい空気は、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に襲われた。悠人は息を吸うことすら忘れ、ただ硬貨を見つめることしかできない。
「なんで……?」茜の声が、初めて恐怖に染まった。彼女の享楽的な好奇心は、この絶対的な悪意によって叩き潰された。
硬貨は、憎悪をぶつけるかのように、指先を通して異常な振動を伝え始めた。それは、微細な筋肉の揺らぎ(不覚筋動) どころではない、強い震え だった。10円玉は「ね」の文字の上で、小刻みに、しかし激しく震え続けている。まるで、硬貨の下に封じ込められた怒り狂った実体が、彼らの存在を否定し、呪い を植え付けようとしているかのようだ。
悠人は、この物理的な異常現象を、もはや心理トリックとして片付けることはできなかった。その震えは、彼らの集団的なパニックとヒステリー を増幅させるための触媒として機能していた。この悪意に満ちたメッセージと物理的な震えは、彼らの潜在意識に入り込み、自己暗示(自己呪縛) を完成させようとしている。
***
硬貨の震えは止まらない。
「シ」「ネ」。たった二文字の言葉が、部屋を満たす空気を有毒に変えていた。
この状況に最も耐えられなかったのは、やはり感受性が極めて強く、既に不安に苛まれていた詩織だった。彼女は震える声で何かを叫びたがったが、喉が張り付いたように音が出ない。
「ひっ!」。
詩織は、ついにその限界を超えた。彼女の精神が、この絶対的な否定と悪意 に耐えきれず、防御反応を起こしたのだ。
彼女は、儀式の絶対的なルール である「途中で10円玉から指を離してはいけない」という警告を完全に無視し、叫び声と共に乱暴に指を硬貨から引き離した。
その瞬間、硬貨は激しく傾き、紙面を滑った。
「呪われる!」。悠人の脳内に、儀式開始前に茜が確認したルール が響き渡る。
詩織は立ち上がり、そのまま錯乱状態で、後ろも見ずに部屋のドアへ走り出した。彼女の背中は、呪いと恐怖から逃れようとする本能的な悲鳴を上げていた。彼女は、この「心理ゲーム」が引き起こした集団パニック の最初の犠牲者となった。
指を離された10円玉は、残された悠人と茜の目前で、異常な行動を開始した。
硬貨は、まるで怒り狂った動物のように、「シ」と「ネ」の二文字を、ありえない速度で、紙面をガリガリと擦るように往復し始めた。硬貨が紙を削る音が、甲高く、耳障りな不協和音となって部屋に響き渡る。
「シネ!シネ!シネ!シネ!」
その動きは、人間の指が作り出せる「不覚筋動」の範疇 を完全に逸脱していた。それはあまりにも高速で、激しく、紙の破片がわずかに飛び散るほどだった。残された悠人と茜は、指先が痺れるほどの衝撃と、視覚的な暴力に晒され、動くことも叫ぶこともできずに硬直した。
詩織が逃げ去ったことで、呪いは確定した。
硬貨の激しい往復運動は、彼らの心臓を直接叩くように続く。悠人は、誰かが意図的に動かしている(他意識介入説) のか、あるいは本当に悪霊が憑依 したのか、その区別をつけられなくなっていた。目の前で繰り広げられる、制御不能な憎悪の連鎖は、彼らの精神の防衛線を徐々に崩壊させていく。
この地獄のような光景の中で、悠人が唯一考えられたのは、「帰れ」とお願いしても、この悪意は決して帰ってくれないだろう という、救いのない確信だけだった。儀式は破壊され、呪いは解き放たれ、恐怖は終わりを迎えることなく継続し始めたのである。




