第8話:かりそめの夜明け
次に私が目を覚ました時、私は見慣れない部屋の、布団の上に寝かされていた。
木の天井。障子窓。そして、鼻腔をくすぐる、古い畳と線香の匂い。
麓の集落の、誰かの家なのだろう。おそらく、あの薪割りをしていた老人の家だ。
身体を起こそうとしたが、全身が鉛のように重く、指一本動かすことさえ億劫だった。
あの夜の出来事が、悪夢の断片のように、次々と脳裏に蘇る。
狒々の嗤い声。破壊される窓。そして、血の海の中で、鬼神の如く戦い、そして力尽きて倒れた、健司の姿。
「……健司さん……」
声を出そうとしたが、喉が張り付いたように、乾いた音しか出なかった。
すると、襖がすっと開き、心配そうな顔をした老人が、お盆に湯呑みを乗せて入ってきた。
「おお、気がついたかね。無理に動かんでもええ。丸一日、眠っておったんじゃよ」
老人はそう言うと、私の枕元に座り、湯呑みを差し出してくれた。私は、震える手でそれを受け取り、ぬるい白湯をゆっくりと喉に流し込んだ。乾ききった身体に、水分が染み渡っていくのが分かった。
「あの……主人は……健司は、どうなりましたか……?」
やっとのことで、声を絞り出す。どうか、生きていて。心の中で、神に祈った。
その問いに、老人は、複雑な表情で一度目を伏せ、そして静かに口を開いた。
「……命に、別状はない。猟友会の連中が、あんたたちを見つけてくれた。……じゃが、酷い怪我じゃ。今は、町の病院に運ばれて、治療を受けとる」
その言葉に、私は安堵と罪悪感で胸が張り裂けそうになった。
生きている。健司は、生きていてくれた。
しかし、彼が負ったであろう重傷を思うと、私が無傷でここにいることが、耐え難いほどの苦痛に感じられた。彼が、たった一人で、私のために、あの地獄を耐え抜いてくれたのだ。
猟友会が駆けつけてくれたのは、老人が私の様子がおかしいことに気づき、知らせてくれたからだという。老人は、私が山へ帰っていった後、胸騒ぎがして、夜通し麓の社で私たちの無事を祈っていてくれたらしい。そして、あの異常な物音と、山から聞こえる銃声を聞き、猟友会に連絡を取ってくれたのだ。
「あんたも、旦那さんも、よう助かった。本当に、よう……」
老人は、何度もそう繰り返した。
しかし、その言葉は、私の心を少しも軽くはしてくれなかった。
助かった? 本当にそうだろうか。
健司は生死の境をさまよい、私たちのささやかな日常は、獣の暴力によって完全に破壊された。これが、「助かった」ということなのだろうか。
私は、ぼんやりと障子窓の外を眺めた。
東の空が、白み始めている。
夜が、明ける。
あの、悪夢のような夜が、ようやく終わるのだ。
安堵。
ほんの少しだけ、そう感じたかもしれない。
もう、あの嗤い声に怯えることはない。あの赤い目に、監視されることもない。
かりそめの、夜明け。
それは、あまりにも儚く、脆いものだった。
***
数人の猟師たちが、老人の家に集まってきた。
彼らは、昨夜の状況を報告し合い、今後の対策を話し合っているようだった。私は、布団の中から、その会話を、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
「しかし、驚いたな。旦那さん、あの怪我で、よくぞアルファを仕留めたもんだ」
「ああ、伝承は本当だったんだ。錐で目を突く、か……。昔の猟師の知恵は、大したもんだ」
「だが……」
一人の、ひときわ体格のいい猟師が、険しい顔で口を挟んだ。
彼は、この辺りの猟友会を束ねるリーダーのようだった。
「問題は、これからだ」
その言葉に、他の猟師たちが黙り込む。
リーダーは、苦々しげに続けた。
「俺たちが駆けつけた時、アルファの死骸を見て、すぐに分かった。……あれは、雄だ」
「雄……? それが、何か……」
若い猟師の一人が、訝しげに問い返す。
リーダーは、深く溜息をつくと、まるで言い聞かせるように、ゆっくりと語り始めた。
「狒々の群れはな、強い雄一匹が、複数の雌を従えてハーレムを作る。そして、その群れの縄張りを支配する。それは、猿山のボス猿と同じようなもんだ。だが、奴らが猿と決定的に違うのは、その王が死んだ時だ」
リーダーの目が、私の方をちらりと見た。その目に、憐れみの色が浮かんでいる。
「強い雄が死ぬと、次に強い雄が、そのハーレムと縄張りを、力尽くで引き継ぐ。そして、新しい王は、まず最初に何をするか……。前の王の血を引く子供を、すべて、皆殺しにするんだ」
部屋の空気が、凍りついた。
「自分の血を引く子孫だけを確実に残すための、獣の習性だ。……今頃、あの山では、新しい王の座を巡って、血で血を洗う、壮絶な殺し合いが始まっているだろう。生き残りを賭けた、雄同士の潰し合いがな」
猟師たちの顔が、恐怖に引きつっていく。
リーダーは、最後に、絶望的な事実を告げた。
「そして、その殺し合いを生き残り、すべてを制した、最も強く、最も凶暴な新しい王は、必ず、ここに復讐しに来る」
復讐。
その言葉が、私の心に、冷たく突き刺さった。
「それは、前の王の仇を討つ、なんて感傷的なもんじゃねえ。新しい王が、自らの力を群れに、そして山全体に誇示するための、最初の儀式だ。前の王を殺した人間を、その番ごと喰らい尽くすことで、自分が新たな支配者になったことを、宣言するんだよ」
私たちは、助かったのではなかった。
健司の命懸けの抵抗は、無駄ではなかった。
しかし、彼の死闘は、結果として、山全体の、底知れぬ憎悪を買い、より強く、より残忍な、新たな絶望を呼び覚ましてしまったのだ。
かりそめの夜明けの光が、障子窓から差し込んでくる。
しかし、その光は、私たちの未来を照らすものではなかった。
それは、これから始まる、さらに深く、救いのない恐怖の、幕開けを告げる光に過ぎなかった。




