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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第12章:警告:その山では、絶対に笑ってはいけない。獣は、お前の絶望を喰らい、恐怖を真似て、嗤うから。

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第6話:絶望の策

 健司の狙いを、私は瞬時に理解してしまった。

 そして、その理解が、私を新たな恐怖のどん底へと突き落とした。


 彼は、あの工具箱を手に入れようとしている。

 そして、伝承にあるように、錐で、あのアルファ個体の目を突くつもりなのだ。


 しかし、どうやって?

 俊敏で、圧倒的な力を持つ狒々の群れに囲まれたこの状況で。満身創痍の身体で。まともに戦って、あのアルファ個体の目を正確に突くことなど、万に一つも可能性はない。


 方法は、一つしかなかった。

 伝承の通り、狒々を「嗤わせる」のだ。

 そして、嗤わせるためには -。


「健司さん、だめ……!」


 私の声は、彼には届かなかった。

 彼は、納戸の扉を背にして狒々の群れと対峙した。

「由美! いいか、絶対にここから出るな! 俺が合図をするまで、絶対にだ!」

 それは、夫として私に命じる、最後の命令だった。


 彼は、私に背を向けた。

 その背中が、私に「生きろ」と告げていた。


 健司は、斧を構え直し、雄叫びを上げた。

 それは、狒々たちの注意を、完全に自分一人に引きつけるための咆哮だった。

 数体の狒々が、再び彼に襲いかかる。彼は、まるで踊るように、傷だらけの身体でそれらをいなし、受け流し、時には斧で反撃しながら、じりじりと、工具箱のある棚へと後退していった。


 その動きは、神懸かっていた。

 血を流しすぎているせいか、彼の顔は青白く、しかしその両目だけが爛々と輝いている。彼は、自分の命が燃え尽きようとしているのを正確に感じ取り、その最後の炎を、この一瞬にすべて注ぎ込んでいるのだ。


 狒々たちは、瀕死の獲物が見せる最後の抵抗を、まるで楽しむかのように、すぐにはとどめを刺そうとしなかった。じわじわと追い詰め、その希望が絶望に変わる瞬間を味わおうとしているかのようだった。


 そして、ついに健司の背中が、棚にぶつかった。

 彼は、後ろ手で工具箱を探り当てると、その蓋を乱暴に開けた。

 ガチャン、と金属の道具が散らばる音がする。


 その隙を、アルファ個体は見逃さなかった。

 今まで戦いの輪から外れ、高みの見物を決め込んでいた王者が、ついに動いた。

 他の個体を押し退け、一直線に健司へと突進する。


 健司は、工具箱の中から何かを掴むと、それをポケットにねじ込み、間一髪でアルファ個体の爪を避けた。しかし、避けきれずに肩を深く抉られ、壁に叩きつけられる。

 手から、斧が滑り落ちた。カラン、と乾いた音を立てて、床を転がる。


 武器を失った。

 健司は、完全に無防備になった。


 アルファ個体は、勝利を確信した。

 ゆっくりと、無防備な健司に近づいていく。

 他の狒々たちも、興奮したように奇声を発し、その周りを取り囲んだ。


 健司は、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。

 そして、天を仰ぎ、諦めたように、ふっと息を吐いた。


 それは、完璧な演技だった。

 すべての抵抗を諦め、死を受け入れた、哀れな人間の姿。


 ***


 おとり。

 彼は、自らの命を、その身を、おとりとするつもりなのだ。

 狒々に喰われる、その寸前の状況を作り出し、勝利を確信したアルファ個体を嗤わせる。そして、唇が目を覆い隠す、その一瞬の隙を突く。


 それが、彼の最後の策。

 絶望の淵で見つけ出した、唯一の勝機。


「やめて……もう、いいから……」

 私の声は、納戸の扉に吸い込まれて消えた。

 もうやめて。もう戦わなくていい。一緒に、ここで、終わりにしましょう。

 そう叫びたかった。しかし、彼の背中は、それを許してはくれなかった。


 アルファ個体は、座り込んだ健司の顔を、すぐ目の前から覗き込んだ。

 血と汗と、絶望にまみれた人間の顔。それは、狒々にとって、何よりの馳走に見えたことだろう。


 アルファ個体の巨大な口が、ゆっくりと、三日月のように歪んでいく。

 黄色い牙が、剥き出しになる。


「ヒ……」


 喉の奥から、嗤い声が漏れ始めた。


「ヒ、ヒ、ヒ……」


 勝利を確信した、侮蔑に満ちた、甲高い嗤い声。

 その瞬間、伝承は、現実となった。


 真っ赤な、分厚い上唇が、ぶるんと捲れ上がり、アルファ個体の両目を、完全に覆い隠した。

 視界を失った、絶対的な王者の、ほんの一瞬の無防備な姿。


 健司は、この千載一遇の好機を、逃さなかった。


 座り込んだままだった彼の身体が、まるでバネのように躍動した。

 床を蹴って、信じられないほどの速さで跳ね起きる。

 その手には、いつの間にか、工具箱から取り出した一本の道具が握られていた。


 柄の太い、先端が鋭く尖った、一本のきり


 彼は、それを逆手に握りしめ、全身全霊の、最後の力を込めて、嗤う狒々の、唇に隠された左目があったであろう場所へと、突き立てた。


「――ッッ!!」


 声にならない絶叫。

 それは、健司の最後の雄叫びだったのか。それとも、私の心の悲鳴だったのか。


 錐は、何の抵抗もなく、ズブリ、と肉を抉る生々しい音を立てて、狒々の眼窩の奥深くへと突き刺さった。


 すべてが、スローモーションに見えた。

 健司の執念が、ついに、王者の急所を捉えたのだ。


 しかし、それは、勝利の狼煙ではなかった。

 愛する者を守るために、夫が、人であることを捨て、鬼と化し、そして自らの命を賭して放った、あまりにも悲しい、絶望の一撃だった。



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