第5話:血戦の狼煙
健司が、動かなくなった。
数匹の狒々による一方的な暴行を受け、壁際に打ち捨てられた彼の身体は、血に濡れた襤褸切れのようにぐったりとしていた。ピクリとも動かない。その光景は、私の心から最後の光を奪い去った。
死んだ。
健司が、死んでしまった。
私を庇って、私の目の前で。
思考が停止する。悲しみも、恐怖さえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。ただ、目の前の現実だけが、色を失った映像のように、私の網膜に焼き付いている。
そして、獣たちは、私に狙いを定めた。
健司を嬲り終えた狒々たちが、一斉にこちらを向く。その目に宿るのは、冷酷なまでの食欲と、これから始まる新たな嬲りへの期待。アルファ個体が、満足げに喉を鳴らすのが分かった。
ああ、次は、私の番なのだ。
健司と同じように、嬲られ、引き裂かれ、そして、喰われる。
それで、いい。
もう、どうでもよかった。
健司のいないこの世界で、一人だけ生き長らえることなど、考えられなかった。私は、ただ、虚ろな目で、ゆっくりと近づいてくる獣たちを見つめていた。
アルファ個体は、まるで獲物の絶望を味わうかのように、ゆっくりと私に近づいてくる。その一歩一歩が、私の死へのカウントダウンだった。
もう、声も出ない。涙も出ない。
私の心は、完全に死んでいた。
その、瞬間だった。
「――グウゥゥゥアアアアアアアアアアッ!」
背後から、絶叫が轟いた。
それは、獣のものでも、私のものですらなかった。
信じられないことに、それは、死んだはずの健司の声だった。
ハッと我に返り、声のした方を見る。
私は、我が目を疑った。
壁際で動かなくなっていたはずの健司が、むくりと、人影が起き上がったのだ。
全身が血と泥にまみれ、服はズタズタに引き裂かれている。しかし、その両目は、常軌を逸した、地獄の底から蘇った亡者のような光を宿して、目の前のアルファ個体を睨みつけていた。
生きていた。
あれほどの暴行を受け、意識を失っていたはずなのに。彼は、まだ、生きていた。
狒々たちも、予期せぬ出来事に驚いたように動きを止め、血まみれのまま立ち上がった健司を見ていた。彼の腕や足には無数の噛み傷があり、腹部も深く裂かれ、そこから夥しい量の血が流れ続けている。常人なら、とうにショック死していてもおかしくないほどの、致命傷。
それでも、彼は立っていた。
その手は空だったが、床に転がっている、血に濡れた斧を、その狂気に満ちた目で見据えていた。
「……ゆ、み……」
掠れた声で、彼が私の名前を呼んだ。
「……納戸へ……行け……!」
その言葉を合図に、我に返ったアルファ個体は、侮辱されたかのように怒りの奇声を発した。そして、目の前の、満身創痍の人間へと猛然と襲いかかった。
健司は、床に転がっていた斧を拾い上げると、全身の痛みも、流れ続ける血も意に介さず、まるで鬼が乗り移ったかのように、雄叫びを上げながらそれを振り回した。その動きは、もはや人間のそれではない。痛みも恐怖も超越した、ただ目の前の敵を滅するという、純粋な破壊衝動の塊だった。
「健司さん!」
私は絶叫した。
健司は、私を振り返ると、鬼の形相で叫んだ。
「早く行けェッ!」
その声に突き動かされるように、私はすぐそばにあった納戸の扉に手をかけた。しかし、足が動かない。彼を一人、この地獄に残していくことなど、できるはずがない。
ガッ!
鈍い音と共に、一体の狒々の腕が、健司の振り抜いた斧によって深く斬りつけられた。狒々は悲鳴を上げながら後ずさる。しかし、すぐに別の狒々の爪が、健司の背中を深く引き裂いた。
それでも、彼は倒れなかった。
振り返りざま、斧の柄で狒々の顔面を強打する。ゴシャリ、と嫌な音がして、狒々は鼻血を噴き出しながら床に転がった。
血戦。
まさに、血で血を洗う地獄絵図だった。
健司は、すでに人間ではなかった。由美を守る、というただ一つの執念だけで動く、復讐の鬼と化していた。彼は、自分がもう助からないかもしれない事を悟っているのだ。だからこそ、その命が尽きる最後の瞬間まで、この獣たちを一体でも多く道連れにし、私が生き延びるための時間を、たとえ一秒でも長く稼ごうとしている。
「うおおおおおおおおおおおっ!」
健司の咆哮が、獣たちの嗤い声と混じり合う。
私は、その姿を、ただ涙で見つめることしかできなかった。
***
健司の動きが、徐々に鈍くなっていくのが分かった。流血がひどすぎるのだ。彼の顔は青白く、しかしその両目だけが爛々と輝いている。彼は、自分の命が燃え尽きようとしているのを正確に感じ取り、その最後の炎を、この一瞬にすべて注ぎ込んでいるのだ。
「由美……!」
彼が、私を呼んだ。
その目は、私にではなく、私の背後にある納戸の扉に向けられていた。
早く、隠れろ。
そう、言っている。
私は、彼の意志を無駄にしてはいけないと、ようやく思い至った。震える手で納戸の扉を開け、その暗闇の中へと身を滑り込ませる。そして、扉を閉める直前、私は見てしまった。
健司の目が、ふと、何かを思い出したかのように、見開かれたのを。
その脳裏に、麓の集落で聞いた、あの老人の言葉が雷のように蘇ったのを、私は彼の表情で悟った。
『狒々は人を喰う前に、必ず嘲笑う。その時、分厚い唇がめくれて目を覆い隠す。その一瞬だけが、ヤツラの急所である目を突く好機じゃ。昔の猟師は、鋭い錐でヤツを仕留めたという』
錐。
健司の目が、部屋の隅にある棚に向けられた。
そこには、この家に移り住む際に持ち込んだ、DIY用の工具箱が、奇跡的に倒れずに残っていた。
彼の目に、絶望の中の、唯一の光が宿った。
しかし、その光は、あまりにも狂気に満ちていた。
この状況で、どうやってあの工具箱までたどり着くというのか。たとえ手に入れたとして、どうやって獣の目を突くというのか。それは、あまりにも無謀で、あまりにも絶望的な賭けだった。
私は、扉を閉め、内側から鍵をかけた。
納戸の中は、カビ臭い、完全な暗闇だった。
扉の向こうから、健司の荒い息遣いと、獣たちの威嚇する声、そして、肉を打つ生々しい音が聞こえてくる。
私は、その場にうずくまり、両手で耳を塞いだ。
聞きたくない。
もう、何も、聞きたくない。
健司さん、死なないで。
お願いだから、死なないで。
心の中で、何度も、何度も繰り返す。
しかし、扉の向こうの地獄は、終わらない。
健司の苦悶の声が、私の鼓膜を突き破って、脳に直接響いてくる。
私は、この暗闇の中で、ただ、夫の死を待つことしかできない、無力な存在だった。




