第4話:絶望の幕開け
電話線が切断されていた。
その事実が、私たちの置かれた状況を、冷たく、そして明確に突きつけてきた。
私たちは、孤立したのだ。
文明から、社会から、助けを呼ぶ声が届くすべての場所から、完全に切り離された。この山に棲む、得体の知れない悪意によって、見えざる檻の中に閉じ込められてしまったのだ。
健司は、青ざめた顔で受話器を置いた。その目には、これまで見せたことのない、深い絶望の色が浮かんでいた。彼が必死に保っていた理性という名の細い糸が、プツリと音を立てて切れたのが分かった。
その夜、嵐が来た。
まるで、私たちの絶望を祝福するかのように、山が揺れるほどの暴風雨が、この小さな古民家に襲いかかった。雨粒が窓ガラスを激しく叩き、風が家の隙間を通り抜けて、不気味な口笛のような音を立てる。停電はしなかったが、照明は頼りなく明滅を繰り返し、私たちの不安をさらに煽った。
私たちは、リビングの隅で、ただ寄り添って震えていた。
健司は、リノベーションの際に残しておいた古い斧を、強く握りしめている。その背中は、私を守ろうとする意志で張り詰めていたが、小刻みに震えているのが分かった。
「大丈夫だ、由美。俺が、必ず守るから」
彼の声は、彼自身に言い聞かせているようだった。
私は、ただ頷くことしかできない。声を出せば、恐怖で泣き出してしまいそうだったから。
その時だった。
家の周りを、何かが動く気配がした。
一つではない。複数だ。
嵐の音に紛れて、草木が踏みしだかれる音、土を踏み固める重い足音が、家の四方から聞こえてくる。
囲まれている。
健司と私は、息を殺して身を寄せ合った。
心臓の音が、耳元でうるさく鳴り響く。
ふと、リビングの大きな窓に、影が映った。
嵐で揺れる木々の影ではない。もっと大きく、もっと明確な、人のかたちをした、しかし、人ではないものの影。
影は、ゆっくりと、窓に近づいてくる。
そして、ぬっ、と、窓ガラスの向こうに、顔が現れた。
「―――ッ!」
私は、声にならない悲鳴を上げた。
それは、猿の顔だった。
しかし、動物園で見るような、愛嬌のある猿ではない。赤と青の毒々しい模様が顔中を走り、剥き出しになった牙は黄色く汚れ、涎を滴らせている。そして何より、その両目は、知性と、底知れない悪意に満ちて、家の中にいる私たちを、品定めするようにじっとりと見つめていた。
狒々。
老人が言っていた、「嗤うモノ」。
その巨大な口が、ゆっくりと歪んでいく。
そして、甲高い、引き攣った音が、ガラス越しに響いた。
「ヒ、ヒ、ヒ……」
嗤っている。
獣が、私たちを見て、嗤っている。
私が恐怖に引き攣った悲鳴を上げると、獣は、まるでそれを真似るかのように、さらに甲高い声で嗤った。それは、人間の恐怖を、絶望を、心から楽しんでいるかのような、おぞましい響きだった。
一つ、また一つと、窓に顔が増えていく。
家のすべての窓という窓に、赤と青の、嗤う顔が、張り付いていた。
私たちは、完全に、獣の群れに包囲されたのだ。
***
「由美! こっちだ!」
健司が私の腕を掴み、玄関の方へと引きずるように走った。彼の考えは分かった。この家の中で最も頑丈な玄関のドアを背にして、立てこもるつもりなのだ。
私たちが玄関の前にたどり着いた、その瞬間だった。
ガッシャアアアアアアアアアアアン!
リビングの窓ガラスが、凄まじい轟音と共に粉々に砕け散った。分厚いはずの強化ガラスが、まるで薄い飴細工のように、圧倒的な暴力の前に屈したのだ。
ガラスの破片が飛び散る中、黒い巨体が、窓枠を突き破って家の中へとなだれ込んでくる。
一体ではない。二体、三体……。
砕け散った窓という窓から、狒々の群れが、堰を切ったように、次々と侵入してきた。
あっという間に、リビングは獣たちで埋め尽くされた。
暗闇に、赤と青の模様を持つ、おぞましい顔がいくつも浮かび上がる。
爛々と光る無数の目。
そして、すべてをかき消す、甲高い嗤い声の洪水。
健司は私の前に立ちはだかり、斧を振り上げた。
「由美! 俺の後ろから離れるな!」
だが、多勢に無勢だった。
一体の狒々が、健司の死角から飛びかかった。彼は反応し、斧の柄で殴りつけるが、すぐに別の狒々が彼の腕に鋭い牙を立てた。
「ぐっ……!」
健司の苦悶の声。しかし彼は腕を振り払い、なおも私を背後にかばい続けようとする。その姿は、絶望的な状況の中での、あまりにも無力で、しかしあまりにも気高い抵抗だった。
その時、ひときわ大きな狒々 -あのアルファ個体が、まるで邪魔者を排除するかのように、健司に強烈な体当たりを食らわした。
「がはっ……!」
健司の身体がくの字に折れ曲がり、壁に叩きつけられる。手から滑り落ちた斧が、カラン、と乾いた音を立てて床を転がった。
武器を失った彼に、数匹の狒々が一斉に群がる。
殴る、蹴る、噛みつく。
それは、捕食というより、一方的なリンチだった。骨が軋む鈍い音と、肉が裂ける生々しい音が、私の耳にこびりつく。健司の腕や足に牙が食い込み、肉が抉られるが、獣たちは決して手足を食いちぎるようなことはしなかった。まるで、じわじわと嬲り殺す過程を、楽しんでいるかのようだった。
「やめて……やめてっ!」
私は絶叫した。しかし、獣たちは止まらない。
健司は、なすすべもなく、ただ暴行を受け続けている。彼の意識が遠のいていくのが、私には分かった。
ああ、もう駄目だ。
健司が、殺される。
私の意識が、恐怖と絶望で白く染まっていく。
その、まさにその時だった。
健司を嬲っていた狒々たちが、ふと動きを止めた。そして、まるで飽きたとでも言うかのように、血まみれでぐったりと動かなくなった彼をその場に残し、一斉に、私の方へと顔を向けた。
その目が、嗤っていた。
前菜は終わった。メインディッシュは、お前だと。
私の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
救いは、どこにもない。
絶望の幕は、今、上がったばかりだった。




