第2話:嗤う影
家庭菜園が荒らされてからというもの、私は家の外に出るのが怖くなった。昼間でも、森の暗がりに得体の知れない何かが潜んでいるような気がしてならなかった。健司は猟友会に連絡して罠を仕掛けてもらうと言ってくれたが、私はそれがただの獣の仕業だとは到底思えなかった。あの悪意は、もっと別の、人間が理解してはいけない領域のものだと感じていた。
山の静寂は、もはや安らぎではなく、不気味な沈黙となって私にのしかかる。夜になると、その沈黙はさらに深まり、耳の奥で自分の心臓の音だけが大きく響いた。
そして、あの夜が来た。
その日は満月で、障子越しに差し込む月明かりが部屋をぼんやりと照らしていた。健司は隣で穏やかな寝息を立てている。私は、あの日以来、ほとんど眠れていなかった。少しの物音にも身体が強張り、意識が覚醒してしまう。
丑三つ時を過ぎた頃だっただろうか。
それは、突然始まった。
「ア、ハ、ハ、ハ、ハハハハハ!」
「キヒ、ヒヒヒヒヒヒ!」
「ケケケケケケケケケ!」
人間のものによく似た、しかし人間のものでは決してない、甲高い嗤い声。
一つではない。複数だ。十か、二十か、それ以上か。まるで山全体が巨大な宴会場と化し、狂った宴が開かれているかのように、嗤い声が四方八方から反響し、家を包み込んだ。それは、楽しいから笑っているのではない。憎悪と侮蔑と、純粋な悪意だけで構成された、聞く者の正気を削り取る音の暴力だった。
「う……あ……」
私は声にならない悲鳴を上げ、健司の腕に必死にしがみついた。
「健司さん、起きて! 聞こえるでしょう!?」
「ん……なんだ、由美……うるさいな……」
眠りの淵から引き戻された彼は、不機嫌そうに眉を寄せた。しかし、山に木霊する異常な嗤い声に気づくと、その表情がみるみるうちに強張っていく。
「なんだ……この声は……」
「わからない……でも、ずっと、ずっと聞こえるの……!」
私たちは身を寄せ合い、息を殺して布団の中にうずくまることしかできなかった。嗤い声は、時に遠くから、時にすぐ家の裏手から聞こえ、まるで私たちの恐怖を弄ぶかのように、その距離と声色を変え続けた。それは夜明け近くまで続き、東の空が白み始めると、まるで悪夢が霧散するかのように、ぴたりと止んだ。
翌日、私たちはほとんど口を利かなかった。健司の顔からは、いつもの自信に満ちた表情が消え、憔悴と恐怖の色が浮かんでいた。彼は、もう「気のせいだ」とは言わなかった。
私は、もう限界だった。このままではおかしくなってしまう。私は震える手で車のキーを掴み、健司の制止を振り切って家を飛び出した。あてはなかったが、とにかく誰かに、人間の誰かに会って話をしなければ、恐怖に押し潰されてしまいそうだった。
山道を下り、麓に近づくと、ぽつりぽつりと民家が見え始めた。その中の一軒、古びた農家の軒先で、腰の曲がった一人の老人が黙々と薪割りをしていた。私は、何かに吸い寄せられるように車を停め、その老人に声をかけた。
「あの……すみません、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
老人はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の奥から、すべてを見透かすような鋭い目が私を見つめる。私が、山の上から来たこと、そして昨夜の出来事を途切れ途切れに話すと、老人は斧を置くと、深く、長い溜息をついた。
「……あんたたち、あの山に入ったのか。忠告してくれる者はいなかったのかね」
「え……?」
「あの山は、入っちゃいかん場所だ。昔から、『嗤うモノ』が出る」
老人の口から語られたのは、この土地に古くから伝わる言い伝えだった。
かつて、私たちが住むあの場所には、もっと大きな集落があったこと。しかし、ある時から山で神隠しが相次ぎ、山に入った者が二度と戻らなくなる事件が多発したこと。そして、夜な夜な山に響き渡る不気味な嗤い声に怯えた村人たちが、すべてを捨てて山を下り、今の集落を築いたのだということ。
「『嗤うモノ』……それは、一体……?」
「誰も、その正体を見た者はいない。ただ、年寄りの話じゃ、それは年老いた猿が化けた、狒々(ひひ)というとんでもねえ化け物だという……。人の言葉を解し、女を攫い、人を喰らう。そして何より、人の恐怖を喜び、嬲り殺しにすることを楽しむ、と」
狒々。その言葉の響きが、私の背筋を凍らせた。
「だから、誰もあの山には近づかん。山の神様への供物だけは欠かさんようにしとるが、それも麓の社の話。山そのものは、もう奴らの領域なんじゃ……。早く、逃げなさい。手遅れになる前に」
老人の言葉は、私の最後の希望を打ち砕いた。あれは、ただの獣でも、気のせいでもなかった。明確な悪意を持って、私たちを嬲るために存在するものだったのだ。
***
私は、青ざめた顔で家に帰った。
老人の話を健司に伝えると、彼は黙り込んだまま、窓の外の、不気味に静まり返った森を睨みつけていた。彼の理性的な思考も、古くからの伝承と、昨夜の現実離れした恐怖の前では、もはや何の役にも立たなかった。
「引っ越そう、由美。すぐにでも、ここを出よう」
健司の言葉に、私はこくりと頷いた。しかし、その決断は、あまりにも遅すぎた。
その夜。
私たちは荷造りもままならないまま、ただ恐怖に耐えていた。嗤い声は聞こえない。だが、その静寂が、嵐の前の静けさのように思えてならなかった。
健司が、ふと息を呑んで窓の外を指差した。
「由美……あれ……」
私も、恐る恐るその方向を見た。
リビングの大きな掃き出し窓。そのガラスに、何かがべったりと付着していた。
それは、泥にまみれた、巨大な手形だった。
人間のそれとは比べ物にならないほど大きく、指は太く、節くれだっている。まるで、巨大な何者かが、窓ガラスに手をつき、家の中をじっと覗き込んでいたかのように。手形は一つではなかった。二つ、三つと、窓のあちこちに、まるで私たちの逃げ場を塞ぐように押されていた。
健司が懐中電灯を手に、震える足で窓に近づく。光に照らし出された手形は、あまりにも生々しく、そこに込められた圧倒的な力を物語っていた。
その時だった。
コン、コン。
窓が、軽く叩かれた。
心臓が喉から飛び出しそうになった。私と健司は、声もなくその場に凍りつく。
コン、コン、コン。
再び、叩かれる音。それは、まるで訪問者がノックをするかのような、しかし悪意に満ちたリズムだった。
そして、懐中電灯の光が揺らめいたその先に、私たちは見てしまった。
窓の向こうの暗闇に、一瞬だけ浮かび上がった、巨大な黒い影。
その影の、顔があったであろう場所で、二つの点が、爛々と赤く光っていた。
影は、ゆっくりと口らしき部分を歪める。
「ヒ……」
声が、ガラスを隔てて、直接脳に響いてきた。
「ヒ、ヒ、ヒ……」
それは、紛れもなく、あの嗤い声だった。
影は、私たちの恐怖を確かめるように、満足げに嗤うと、すっと闇の中へ消えた。
後に残されたのは、窓にべったりと付着した巨大な手形と、私たちの絶望だけだった。もう、逃げられない。私たちは、禁域の檻に囚われた、哀れな獲物に過ぎなかったのだ。
救いを求める声は、どこにも届かない。ただ、嗤う影が、私たちのすぐそばまで迫ってきていた。




