第4話:水没する魂
あの後、奇妙な安堵感が僕を包んだ。渇きは消えた。あの忌々しい水音も、呼び声も、ぱったりと止んだ。家中に漂っていた腐臭も薄れ、小川のせせらぎは、以前のようにただの自然音に戻っている。まるで悪夢が醒めたようだ。河童は約束を守ったのか? あの恐ろしい取引は、幻覚だったのではないか? そう思い始めていた。
しかし、身体に異変が起きた。まず、信じられないほどの倦怠感。全身の骨が抜けたように重い。立っているだけで精一杯だ。
次に、体温の低下。真夏なのに、常に寒気を感じる。手足の先は氷のように冷たい。そして、最も不気味なのは、感情の希薄さだ。恐怖も、安堵も、かつてのあの灼熱の渇きさえも、遠い世界の話のように感じられる。心の奥が、空っぽの洞窟のようだ。
ただ、腰の奥、仙骨のあたりに、妙な違和感が残っている。鈍い痛みというより、何かが「ない」ことによる、空虚な疼き…。まるで、歯を抜いた後の、存在しない歯茎を無意識に舌で探る感覚に似ている。それが、あの取引の痕跡なのだろうか?
鏡に映る自分の姿は、確実に変わり果てていた。頬はさらに落ち込み、皮膚は土気色で、つやがなくなり、ところどころに妙な青みが差している。目の輝きは完全に消え、魚の目のように虚ろで、焦点が定まらない。
髪の毛はパサつき、抜け毛が目立つ。動きは緩慢で、まるで水の中で動いているかのようだ。これが、「尻子玉」を奪われた人間の姿なのか? それとも…僕は、ゆっくりと河童に変わりつつあるのだろうか? その考えが頭をよぎると、空虚な胸の奥に、かすかな波紋が広がった。恐怖というより、諦めに近い感情だ。
夜中に目が覚めた。理由はわからない。月明かりが、障子に青白く映っている。静かだ。あまりに静かだ。小川のせせらぎさえも聞こえない。ただ、自分の体内で響く音だけが際立っている。ドクン…ドクン…。心臓の鼓動だ。しかし、その音が…水音に聞こえるのだ。鼓動一つ一つが、深い井戸の底で水滴が落ちる音に重なる。ドクン…ポトン…。ドクン…ポトン…。
その音に引き寄せられるように、身体が動いた。意志とは無関係に、布団から起き上がり、リビングへと向かう足取りは、以前の重さとは違い、妙にふわふわとしている。まるで浮力があるようだ。
リビングの中央、あの水痕の跡が残る場所に立つ。畳の傷跡が、月明かりで浮かび上がっている。その傷跡の上に立つと、足の裏から、冷たい感触がじわじわと浸透してくる。あの空虚な疼きが、腰の奥で強く脈打つ。
見下ろす。自分の足元の影が、月明かりで長く伸びている。その影が、ゆらゆらと揺れている。影の輪郭が、次第にぼやけ、溶けていく。
自分の身体が、地面に吸い込まれていくような…いや、違う。影そのものが、濃い墨を流したように、畳の上に広がり始めているのだ。その漆黒の水溜まりが、じわじわと大きくなり、中心に深い渦を形成する。僕の足首が、影の水に浸かり始めた。冷たい。しかし、その冷たさは、もはや苦痛ではない。むしろ、馴染みのある、安らぐ感覚だ。
「…そうか…」
声が出た。それは、かつての僕の声ではなかった。水泡が上がるような、濁った、低い声だ。腰の奥の疼きが、渦の中心へと引っ張られる感覚に変わる。引き抜かれる。しかし、痛みはない。むしろ、重い錘が外れたような解放感。視界が揺らぐ。月明かりが滲み、周囲の家具の輪郭が、水の中から見上げたように歪んでいく。
影の渦は、みるみる大きくなり、もはや僕の膝までを飲み込んでいる。身体は驚くほど軽い。抵抗したいという気持ちは、微塵も湧いてこない。これが…帰る場所なのだ。深い、深い水の底へ。あの冷たい闇が、僕の身体を優しく、しかし確実に包み込んでいく。腰から下は、すでに渦の中に没し、影と同化している。胸まで水が来た。呼吸が楽だ。水を吸い込んでも苦しくない。
最後に視界に入ったのは、月明かりに照らされた天井だった。その天井に、巨大な、緑がかった影が映っている。頭には、くぼんだ皿の輪郭。背中には、甲羅のような盛り上がり。そして、細長い影の腕が、ゆっくりと伸びてきて、完全に水没しようとする僕の頭を、冷たく、しかしどこか親しげに、撫でるような動きを見せた。
「…さあ…」
影の河童…かつての僕自身か? その囁きと共に、最後の気泡が口から零れ、視界は完全な闇と水圧と、底知れぬ安堵に包まれた。頭上では、月の光が、静かな水面を、遥か遠くで揺らめいている。もう、渇くことはない。永遠に。
*
朝の光が、空っぽの家のリビングを照らす。畳の上には、深く引き裂かれたような傷跡と、大きな、乾ききった水痕の輪郭がくっきりと残っている。その中心は、妙に光沢を帯び、深く窪んでいる。まるで、巨大な水滴が落ちた跡のようだ。家の中は、ひっそりと静まり返っている。小川のせせらぎだけが、これまでになく明るく、清らかに響いている。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
初めての投稿作品「河童の棲む家」、いかがでしたでしょうか。
ありふれた日常に潜む恐怖が、じわじわと主人公を蝕んでいく様子を描きたい、という思いでこの物語を紡ぎました。古くから伝わる「河童」という存在を、自分なりに解釈してみた結果、このような結末になりました。
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