第1話:新生活の不協和音
皆様、この度は、数ある作品の中から『警告:その山では、絶対に笑ってはいけない。獣は、お前の絶望を喰らい、恐怖を真似て、嗤うから。』を開いていただき、誠にありがとうございます。
都会での暮らしに疲れ、心に傷を負った一組の夫婦。
彼らが安らぎを求めて辿り着いた山奥の古民家は、古くから「禁域」と呼ばれる、決して足を踏み入れてはならない場所でした。
これは、静かな生活を願った二人のささやかな日常が、人ならざる獣の悪意によって、じわじわと、そして無慈悲に破壊されていく物語です。
そこに救いはなく、希望の光も見えません。ただ、純粋な恐怖と、抗うことのできない絶望だけが、彼らを待ち受けます。
読者の皆様を、後味の悪い、救いのない結末へと引きずり込むことになるかもしれません。
もし、あなたが「ハッピーエンド」や「勧善懲悪」を求めるのであれば、このページをそっと閉じることをお勧めします。
それでも、人間の心の脆さ、そして、理不尽な恐怖の果てにあるものを覗いてみたいという方だけ、どうぞ、この絶望の扉を開けてください。
それでは、本編をお楽しみください。
夜、トイレに行けなくなっても、当方は一切の責任を負いかねますので、あしからず。
私の人生は、あの流産を境に色を失った。
お腹の中で確かに感じていた小さな命の鼓動が、ある日突然、永遠に止まってしまった。医師の淡々とした説明も、夫である健司の慰めの言葉も、乾いたスポンジに水を垂らすように、私の心には少しも染み込んでこなかった。泣き叫ぶ気力さえ湧かず、ただ空っぽの器になった自分を持て余す日々。都会の喧騒、街に溢れる幸福そうな家族の姿、そのすべてが鋭い棘となって私を刺した。
「由美、少し環境を変えてみないか」
そんな私を見かねて、健司が提案してきたのが、この山奥への移住だった。地図の上では、もはや存在しないかのように扱われている古い集落の、そのまた外れにぽつんと建つ古民家。フリーランスのウェブデザイナーである彼にとっては、仕事場を変えることに何の支障もなかった。むしろ、都会のコンクリートジャングルから抜け出し、自然の中で創作意欲を刺激したいという願望があったらしい。
私に、否やはなかった。どこでもよかった。ただ、この息の詰まるような日常から逃れられるのなら。子供の声が聞こえない場所へ行けるのなら。そうして私たちは、半ば逃げるようにして、この山へやってきた。
車一台がやっと通れるほどの細い山道を延々と登り、視界が開けた先にその家はあった。リノベーション済みだというその古民家は、想像していたよりもずっと綺麗で、太い梁や柱が歴史を感じさせながらも、キッチンやバスルームは最新の設備が整っていた。家の周りは深い森に囲まれ、聞こえてくるのは鳥のさえずりと、風が木々の葉を揺らす音だけ。空気は澄み渡り、吸い込むたびに都会で溜め込んだ澱が洗い流されていくような錯覚さえ覚えた。
「どうかな。気に入った?」
「……うん。静かで、いいところね」
健司は私の短い返事に満足したように笑い、これから始まるスローライフへの期待に胸を膨らませていた。私も、この静寂が、抉られた心の傷を少しでも癒してくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。
理想の生活。そう呼ぶべき日々が始まった、はずだった。
***
引っ越してきてから、一週間が経った。
健司は書斎にこもり、新しい環境で仕事に打ち込んでいる。私はと言えば、特にやることもなく、家の掃除をしたり、庭の片隅に小さな家庭菜園を作ったりして時間を潰していた。土をいじっている間は、余計なことを考えずに済んだ。ミニトマト、きゅうり、なす。小さな苗を植え、水をやりながら、今度こそ、この手で何かを育て上げたいと、無意識に願っていたのかもしれない。
異変に気づき始めたのは、その頃からだった。
家に一人でいると、ふと、誰かに見られているような感覚に襲われるのだ。最初は気のせいだと思っていた。慣れない環境で、神経が過敏になっているだけなのだろう、と。だが、その視線は日に日に執拗さを増していった。
洗濯物を干しに庭へ出ると、背後の森の、木々の隙間から。
縁側でぼんやりと山を眺めていると、遠くの山の稜線から。
それは、特定の場所からというわけではない。まるで、この家全体が、森そのものに監視されているような、そんな気味の悪い感覚だった。視線を感じて振り返っても、そこには風にそよぐ木々があるだけ。鳥の声すら、ぴたりと止んでいる。
その日の夜、健司にそのことを打ち明けてみた。
「ねえ、健司さん。なんだか、この家、誰かに見られているような気がしない?」
彼はモニターから目を離さずに、キーボードを叩きながら答えた。
「視線? まさか。こんな山奥に、俺たち以外の誰がいるって言うんだ。野生動物でも見間違えたんじゃないか?」
「でも……」
「考えすぎだよ、由美。少し疲れてるんだ。ゆっくり休めば、すぐに慣れるさ」
取り合ってもらえなかった。彼にとって、私の訴えは、また始まった精神的な不安定さの表れくらいにしか思えなかったのだろう。そのことが、私をさらに孤独にした。
そして、その夜。
健司が寝静まった後、私は一人、ベッドの中で浅い眠りと覚醒の狭間を漂っていた。しん、と静まり返った家の中に、不意に音が響いた。
キ、キ、キ……。
甲高い、何かを引っ掻くような音。違う。もっと、喉を締め上げたような、引き攣ったような……。
嗤い声?
いや、そんなはずはない。動物の鳴き声だ。健司が言っていた通り、きっとそうなのだ。私は耳を塞ぎ、無理やり意識を眠りの底へと沈めた。聞きたくなかった。認めたくなかった。私たちの新しい生活に、不協和音が混じり始めていることなど。
翌朝、私は悲鳴を上げそうになった。
大切に育てていた家庭菜園が、無残に荒らされていたのだ。植えたばかりの苗は根元から引き抜かれ、土は掘り返され、支柱はめちゃくちゃにへし折られていた。まるで、子供が癇癪を起こしたかのように、ただ破壊することだけを目的としたような、悪意に満ちた光景だった。
猪や鹿の仕業ではない。それなら、もっと畑全体が踏み荒らされているはずだ。これは、まるで知性を持った何者かが、私が大切にしているものを的確に狙い、壊していったとしか思えなかった。
私は、震える手で引き抜かれたトマトの苗を拾い上げた。その瞬間、背後の森の奥深くから、またあの声が聞こえた気がした。
キ、キ、ヒ……。
それは、私の絶望を嘲るかのような、甲高い嗤い声だった。




