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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第11章:その家は、女に犬神を「産ませる」ための贄殿。

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第7話:胎内の咆哮

 あの海神祭の夜、私はどうやって家に帰り着いたのか、記憶がすっぽりと抜け落ちている。気がついた時、私は自分の寝室のベッドに横たわっていた。着ていたはずの白無垢はどこにもなく、いつもの寝間着に着替えさせられている。まるで、全てが悪夢だったかのように。しかし、身体の奥深くにまとわりつく海の匂いと、子宮に流れ込んだあの冷たい海水の感触、そして腹部に刻まれた青黒い紋様が、それが紛れもない現実であったことを物語っていた。


 それからの日々、私は生きながらにして死んでいた。家からは一歩も出ず、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つだけ。腹の中の「何か」は、日増しにその存在感を増していった。それは、生命の温かさなどでは断じてない。冷たく、硬質で、悪意に満ちた塊。時折、腹の中で何かが蠢く。胎動と呼ぶにはあまりに暴力的で、内側から臓器を蹴り上げられるような鋭い痛み。そして、夜、静寂が訪れると、腹の中から音が聞こえるのだ。


 カリ、カリ、カリ……。


 硬いものを、鋭い牙で削るような音。私の骨を、内側から齧っているのではないか。そんな妄想に取り憑かれ、私は眠ることすらできなくなった。


 ある日、耐え難い腹痛に襲われ、私は半狂乱の状態で鳴海医師のクリニックに駆け込んだ。もはや幻覚や精神の問題ではない。この腹の中に、物理的に「何か」がいる。その確信があった。私の常軌を逸した様子に、鳴海医師は驚きながらも、すぐに私を診察台に乗せ、超音波検査の準備を始めた。


「柚月さん、落ち着いて。大丈夫、ただのストレス性の胃痙攣かもしれません。まずは、お腹の中を見てみましょう」


 彼の穏やかな声が、今はひどく空々しく聞こえる。冷たいジェルが腹に塗られ、プローブが当てられる。モニターに、白黒のぼんやりとした映像が映し出された。


 鳴海医師の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。彼は何度もプローブの角度を変え、首を捻っている。


「……おかしいな。これは……」


 彼の隣で、看護師が息を呑む音が聞こえた。私も、震える身体を起こし、そのモニターを覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、赤ん坊の姿ではなかった。


 はっきりとした、犬の頭蓋骨。


 眼窩は黒く虚ろに窪み、長く伸びた吻部、そしてずらりと並んだ鋭い牙。それは間違いなく、犬の頭蓋骨だった。まるで、私の胎内に、一匹の犬が頭から埋まっているかのように。


「な……なんだ、これは……!?」


 鳴海医師が絶句する。


「奇形……?いや、こんな、こんな症例は見たことがない……!腫瘍の一種なのか?テラトーマ……?いや、それにしても、形がはっきりしすぎている……!」


 医師たちが「奇形」という言葉で目の前の異常を説明しようと躍起になっている。だが、私にはわかった。あれは、奇形などではない。


 あの天井裏の祭壇で見た、煤けたガラス瓶に浮かんでいた、あの形だ。


 祖父が、祖母が、そしてこの血筋の女たちが代々祀り、受け継いできた、怨念の器。それが今、私の胎内で、成獣の姿へと成長しようとしている。


 私は、よろめきながら診察室を飛び出した。鳴海医師の制止する声が背後で聞こえたが、もうどうでもよかった。科学も、医学も、この呪いの前では無力なのだ。


 家に帰り着いた私は、一直線に天井裏へと向かった。脚立を駆け上がり、あの忌まわしい祭壇の前に立つ。ガラス瓶の中の液体は、以前よりもどす黒く濁り、あの胎児のような物体は、さらに大きく、そしてより犬に近い形へと変貌していた。その閉ざされた瞼が、私の気配を察して、ぴくりと動く。


「お前のせいだ……お前たちのせいだ……!」


 私は、狂ったように叫びながら、祭壇に手をかけた。鼠色の毛が舞い散る。そして、あのガラス瓶を掴み上げ、床に叩きつけた。


 ガシャァァァン!


 けたたましい音と共に瓶は砕け散り、黄褐色の液体と、ホルマリン漬けの標本のような物体が床に散らばった。


 その瞬間だった。


 アオオオオオオオオオオォォォンンン!!!


 港全体を、いや、この世界の全てを震わせるかのような、凄まじい咆哮が響き渡った。それは、単一の犬の声ではない。何百、何千という犬たちの、飢えと苦しみと怨念が一つになった、魂を直接揺さぶるような絶叫だった。


 その咆哮に応えるかのように、近所の家々から、犬たちの狂ったような鳴き声が聞こえ始めた。キャンキャンという悲鳴、グルルルという唸り声、そして、断末魔の絶叫。やがて、それらの声は一つ、また一つと消えていき、不気味な静寂が訪れた。


 私は、窓から外を見た。港の沿岸部で、人々が家から飛び出し、右往左往している。誰かが倒れ、痙攣しているのが見えた。原因不明の高熱。昭和二十二年の人柱騒動。祖父の日記に書かれていた言葉が、脳裏に蘇る。


 私が、解き放ってしまったのだ。


 この家に、この土地に封印されていた、数多の犬神の怨霊を。瓶を破壊したことで、その封印は解かれ、呪いは解放された。そして、その呪いは、新たな宿主を求めて、港を彷徨い始めたのだ。


 腹の底から、熱いものが込み上げてくる。腹の中で、あれほど暴れていた「何か」が、ぴたりと動きを止めた。まるで、外の惨状を、静かに聞き入っているかのように。




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