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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第11章:その家は、女に犬神を「産ませる」ための贄殿。

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第4話:招かれざる客

 鳴海憲吾医師との診察は、ある意味で私を安心させた。彼は、私の話を辛抱強く、そして真摯に聞いてくれた。水面の顔も、冷蔵庫の肉も、全ては極度のストレスと環境の変化が引き起こした「臨場感の強い幻覚」であり、一時的な解離性障害の一種だろうと、彼は穏やかな口調で説明した。


「この地域ではね、昔からそういう不可解な体験を『憑き物』のせいにする傾向があるんです。でも、その多くは現代医学で説明できる。早く適切な治療を受ければ治る病気なのに、祈祷師や拝み屋に頼って手遅れになるケースを、私は何度も見てきました」


 鳴海医師の言葉は、合理的で、説得力があった。そうだ、私は疲れているだけなのだ。研究者としての思い込みが、恐怖を増幅させているに過ぎない。彼は私にいくつかの精神安定剤を処方し、またいつでも相談に来るようにと言ってくれた。


 その夜、私は処方された薬を飲み、数日ぶりにベッドに入った。薬のおかげか、あるいは医師の言葉に安心したからか、不思議と恐怖は感じなかった。天井裏の物音も、獣の匂いも、今夜はしないようだ。私は深い眠りに落ちていった。


 しかし、安らぎは長くは続かなかった。


 真夜中、私は猛烈な飢餓感で目を覚ました。胃が焼け付くように痛み、何かを食べなければ死んでしまう、という強迫観念に駆られる。身体が自分の意志とは無関係に動き出し、私は夢遊病者のように台所へ向かった。そして、あの冷蔵庫を開けていた。


 床に散らばっていたはずの肉塊は、いつの間にか綺麗に片付けられている。誰が?私が?記憶がない。冷蔵庫の中には、昨日と同じように、飲みかけの牛乳と萎びた野菜しかない。


「足りない」


 私の口から、低い声が漏れた。それは、私の声ではなかった。もっとしゃがれていて、年老いた男のような声だった。


「もっと、血の滴る、生の肉が欲しい」


 その声に導かれるように、私は財布と鍵だけを掴み、ふらふらと家を出た。時刻は午前三時を回っている。開いている店など、コンビニくらいしかないだろう。煌々と明かりの灯るコンビニの自動ドアをくぐった瞬間、文明の光に安堵する一方で、自分の異常な行動に背筋が凍った。真夜中に、生肉を求めて徘徊するなど、正気の沙汰ではない。


 私は、せめてもの抵抗として、精肉コーナーには目もくれず、弁当の棚に向かった。その中で、ふと赤飯のパックが目に留まった。赤い色。血を連想させるからだろうか。無意識に、その赤飯を手に取っていた。


 レジで会計を済ませ、店を出ようとした時だった。入り口の横で、一人の老婆が地べたに座り込んでいるのが目に入った。薄汚れた毛布にくるまり、深く皺の刻まれた顔を俯かせている。ホームレスだろうか。こんな田舎町にもいるのか、とぼんやり思った。


 彼女の横を通り過ぎようとした、その瞬間。老婆が、ぬっと顔を上げた。虚ろだったはずの目が、爛々と光を放ち、私を射抜く。そして、枯れ枝のような皺だらけの手が、蛇のように伸びてきて、私の持っていた赤飯のパックを鷲掴みにした。


「ひっ……!」


 驚いて手を引こうとするが、老婆の力は信じられないほど強く、びくともしない。


「……お前ん家の犬神、また暴れとるな」


 老婆が、しわがれた声で囁いた。その声には聞き覚えがあった。いつか、どこかで。いや、違う。これは、先ほど台所で私の口から漏れた声と、同じ声質だ。


「そんなもんで腹の足しになるか。豆を撒いても、もう鎮まらん。そういう時はな……」


 老婆は、私の目をじっと見つめ、にたりと笑った。その口元から、黒く欠けた歯が覗く。


「首輪を、外すしか……ないんじゃよ」


 その言葉を言い終えると、老婆はパッと手を離し、再び虚ろな目で地面を見つめ始めた。まるで、先ほどの出来事など何もなかったかのように。


 私は、赤飯のパックを取り落とすのも構わず、その場から逃げ出した。背後で、老婆の低いくぐもった笑い声が聞こえた気がした。


 家まで、どれだけ走っただろうか。息も絶え絶えに玄関のドアにたどり着き、鍵を開けようとして、私はその場に凍りついた。


 玄関の前に、小豆が一面に撒かれていた。


 魔除けか。誰が、何のために。恐怖に震えながら、その小豆の海をよく見ると、中に白い粒がいくつも混じっているのが分かった。それは、ただの白い石ではなかった。月光を浴びて、鈍く、象牙色に光っている。


 削り取られた、歯の破片だった。


 人間のものか、獣のものか。大きさも形もバラバラの歯の破片が、まるで呪いの儀式のように、小豆に混ぜられていた。


 その時、家の中から電話の呼び出し音が鳴り響いた。


 ジリリリリリリ……!


 古い黒電話の、耳をつんざくようなベルの音。こんな時間に、誰が。私は恐る恐る家に入り、震える手で受話器を取った。


「……もしもし」


 返事はない。ただ、ザーッという、海の底から聞こえてくるようなノイズが続くだけだ。切ろうとした、その時。


 ノイズの向こうから、声が聞こえた。


『……に……げるな……』


 その声に、私は全身の血が逆流するのを感じた。間違いない。死んだ、祖父の声だった。生前の、あのしゃがれた声。しかし、それは生身の人間の声ではなかった。イントネーションが奇妙に平坦で、まるで機械が合成したかのような、無機質な響きを帯びていた。


『逃げるな。お前は、ここから逃れられない』


 受話器が、手から滑り落ちた。ガチャン、と大きな音がして、床に転がる。それでも、受話仕事の向こうからは、祖父の声が、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返し囁き続けていた。


『逃げるな』

『逃げるな』

『逃げるな』


 私は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。鳴海医師の言葉が、遠い世界の出来事のように感じられる。これは幻覚などではない。薬で抑えられるような、生易しいものでもない。


 私は、招かれざる何かに、取り憑かれてしまったのだ。そしてそれは、私の血に、この土地に、深く根差した、逃れることのできない呪いなのだと、絶望的な確信と共に理解した。玄関に撒かれた歯の破片が、これから始まるおぞましい饗宴の招待状のように、月光の下で妖しく輝いていた。




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