第3話:水甌の影
あの坂道での出来事以来、私の日常は静かに、しかし確実に侵食され始めていた。昼間は、民俗学研究者としての理性が、一連の出来事を幻聴や幻覚、極度のストレスによる心因性のものだと結論付けようとする。祖父の死、慣れない土地での孤独な生活。それらが私の精神の均衡を崩しているのだと。だが、夜が訪れ、家が潮鳴りと静寂に包まれると、その脆い理性はあっけなく崩れ去った。天井裏からは、依然として何かが這いずる音が聞こえ、押し入れの奥からは、あのむせ返るような獣の匂いが漂ってくる。私は、もはや自分の部屋で眠ることを諦め、居間のソファで明かりをつけたまま、浅い眠りを繰り返すようになっていた。
その日も、私は夜明け前の薄明かりの中で目を覚ました。喉がカラカラに渇いている。昨夜もまた、悪夢にうなされていた。暗い土の中で、無数の犬が私に向かって吠え立てる夢。その声は、助けを求めるようでもあり、私を呪うようでもあった。
重い身体を引きずって台所へ向かう。シンクの横に置かれた、昔ながらの大きな水甌から水を飲もうと、屈み込んだ時だった。静かな水面に、私の顔が映り込んでいる。寝不足で目の下には隈が張り付き、血の気の失せた青白い顔。だが、見慣れた自分の顔のすぐ隣に、もう一つの顔が揺らめいていることに気づき、私は息を呑んだ。
それは、私によく似ていた。骨格も、髪の長さも。しかし、決定的に違っていた。その顔は、まるで水面に映った歪んだ月のように、不気味な表情を浮かべている。目尻はきつく吊り上がり、憎悪に満ちた光を宿している。唇は醜くめくれ上がり、真っ黒に変色した歯茎が剥き出しになっていた。それは、飢えと渇き、そして底なしの怨念に凝り固まった、獣の相貌だった。
二つの顔が、水面でじっと私を見つめている。片方は恐怖に引き攣る私。もう片方は、私を嘲笑うかのような、歪んだ私。
金縛りにあったように動けずにいると、蛇口の先端から、溜まっていた水滴がぽつりと一つ、水面に落ちた。波紋が広がり、水滴は、ちょうどあの歪んだ顔の口元あたりに吸い込まれるように消える。
その瞬間だった。
ガタガタガタガタッ!
背後の冷蔵庫が、まるで生き物のように激しく暴れ出した。モーターの唸り声とは違う、内側から何か巨大な力が扉をこじ開けようとしているかのような、凄まじい振動と轟音。私は悲鳴を上げることもできず、ただその場にへたり込んだ。数秒間続いたであろう狂乱の後、バンッ!という破裂音と共に、冷蔵庫の扉が勢いよく開け放たれた。
そして、中から雪崩のように、肉の塊が溢れ出してきた。
赤黒い、血の滴る生の肉塊。豚、牛、鶏。様々な種類の肉が、ごちゃ混ぜになって床に散らばっていく。それらは全て、私が買った覚えのないものだった。昨日、この冷蔵庫を開けた時、中には飲みかけの牛乳と萎びた野菜が少し入っているだけで、ほとんど空だったはずだ。それなのに、今、私の目の前には、まるで屠殺場から直接運び込まれたかのような、おびただしい量の生肉が山を築いている。
鼻をつく鉄錆のような血の匂いに吐き気を催しながら、私は後ずさった。その時、散らばった肉塊の間に転がる牛乳パックが目に入った。厚い紙パックの側面に、くっきりと歯形が残されている。それは、明らかに人間の歯形ではなかった。犬歯が異常に鋭く、そして何より異様なのは、その奥歯の痕だ。まるで鮫のように、三列に並んだ小さな歯が、無数に突き立てられた痕跡があった。
恐怖が、じわじわと私の思考を麻痺させていく。これは現実なのか。それとも、私はとうとう狂ってしまったのか。水面に映ったもう一人の私。冷蔵庫から溢れ出た肉塊。三列の歯形。それら全てが、あの古文書に書かれていた「犬神憑き」の症状と不気味に符合していた。
『犬神に憑かれし者は、大食となり、生肉を好む。その姿は人に似て人にあらず、時に獣の相を現す』
図書館で読んだ一節が、頭の中で木霊する。梓さんの「あの家の者なら尚更だ」という言葉が、呪いのように私にまとわりつく。まさか。私が?この私が、犬神に憑かれているというのか?
私は震える手でスマートフォンを掴み、地域の精神科医を検索した。この異常な現象を、誰かに説明しなくては。科学的な見地から、合理的な答えを与えてもらわなくては。そうしなければ、私はこの得体の知れない恐怖に飲み込まれてしまう。検索結果のリストから、一番上に出てきた「鳴海メンタルクリニック」の番号を、私は祈るような気持ちでタップした。




