第2話:埋もれた儀式
あの忌まわしい夜から数日、私はまるで何かに追われるように、この土地の歴史に取り憑かれていた。フリーの歴史研究者としての性なのか、それとも、あの恐怖から逃れたい一心だったのか。理由は自分でもよく分からない。ただ、この家に、この土地に渦巻く「何か」の正体を突き止めなければ、私は正気でいられないだろうという確信だけがあった。
特に私の心を捉えて離さなかったのは、西日本に広く分布する「犬神」の信仰だ。狐憑きが江戸時代に流行したのに対し、犬神はそれより古く、より土着的で、人間主導の邪悪な蠱術の一種であったという点に、私は以前から強い学術的探求心を抱いていた。そして、この四国、特に高知や徳島の山間部や沿岸の閉鎖的な集落こそが、その本場とされている。祖父の家が、まさにその場所にあったのは、単なる偶然なのだろうか。
私は市立図書館の郷土資料室に足を運んだ。古びた木造の建物は、カビと古い紙の匂いが混じり合った独特の空気に満ちている。受付で目的を告げると、年配の女性司書が、無言で奥の書庫へと私を案内した。彼女の視線が、値踏みするように私の全身を舐めるのが分かった。
薄暗い書庫の棚に、それはあった。『土佐犬神考』と背表紙に金文字で記された、分厚い和綴じの古文書。埃を払い、重々しい表紙をめくると、旧字旧仮名遣いで書かれた文章が目に飛び込んできた。私は、憑かれたようにページを読み進めていく。犬神の作り方、その使役方法、憑かれた者の症状、そして犬神筋と呼ばれる家系が辿る運命。そこには、私の知らない世界の、おぞましい法則がびっしりと書き連ねられていた。
そして、あるページで私の指が止まった。
ページの間に、潰れた蠅の死骸が黒い染みとなってこびりついている。その横に、木版画であろう挿絵が描かれていた。痩せこけて肋骨の浮き出た一匹の犬。その首だけを地上に出し、身体を土の中に埋められている。犬の前にはご馳走が置かれ、飢えと渇きに苦しむ犬が、必死にそれを食べようと喘いでいる。そして、その苦しみが頂点に達した瞬間、傍らで控えていた男が、刀を振りかぶり、その首を刎ねようとしている。あまりに克明で、悪意に満ちたその絵から、私は目を逸らすことができなかった。犬神とは、こうして人為的に作り出された、飢えと怨念の塊なのだ。
その時、脳裏に祖父の書斎で見つけた日記の断片が蘇った。遺品整理の際に見つけた、茶色く変色した大学ノートの切れ端。そこには、祖父の震えるような筆跡で、こう記されていた。
「昭和二十二年 港の再建工事で人柱騒動。作業員が謎の高熱で次々倒れる。神主が勧めた生贄の儀──」
日付は、戦後間もない混乱期。この廃港が、まだ活気に満ちていた頃の話だろう。人柱、生贄。その言葉が、挿絵の飢えた犬の姿と重なる。まさか、この港の繁栄のために、あのような儀式が。そして、その儀式に、私の祖父が関わっていたというのか。
全身から血の気が引いていく。点と点が線で結ばれ、おぞましい形を成していく。あの天井裏の物音。濡れた毛の束。獣の匂い。それらは全て、この土地に埋められた怨念の叫びだったのではないか。
「──こんなもの、読んでると憑かれるわよ」
突然、背後から鋭い声がした。驚いて振り返ると、いつの間にか、あの年配の司書が私の真後ろに立っていた。梓と名札にある彼女は、皺の刻まれた顔を険しく歪め、私の手の中の古文書を睨みつけている。
彼女は、私の返事を待たずに、その資料をひったくった。そして、ビリビリ、という耳障りな音を立てて、あの挿絵のページを躊躇なく引きちぎったのだ。
「なっ、何をするんですか!貴重な資料なのに!」
思わず声を荒らげる私を、梓さんは射るような目で見据えた。
「貴重な資料?これは呪いの手引書よ。あんたみたいな部外者が、面白半分で首を突っ込んでいいものじゃない」
「部外者じゃありません。私は、この町で生まれたんです。それに、歴史研究者として……」
「ああ、そうだったわね」
梓さんは、吐き捨てるように言った。
「あの家の者なら、尚更だわ。あんたは、もうとっくに部外者なんかじゃない」
その言葉の意味を、私は理解できなかった。ただ、彼女の瞳の奥に宿る、憐れみと恐怖が入り混じったような光に、得体の知れない不安を掻き立てられた。彼女は破り取ったページを固く握りしめると、何も言わずに書庫の奥へと消えていった。
図書館を出ると、西の空が茜色に染まっていた。海からの風が、私の火照った頬を冷たく撫でていく。重い足取りで、実家へと続く坂道を登り始めた。梓さんの言葉が、頭の中で何度も反響する。「あの家の者なら尚更」。一体どういう意味なのか。私の家系と、犬神に何の関係があるというのか。
その時だった。
背後で、砂利を踏む音がした。
ザリ、ザリ……。
一定の間隔で、誰かが私についてきている。私は足を止め、ゆっくりと振り返った。
誰もいない。
夕暮れの坂道が、どこまでも続いているだけだ。気のせいか。疲れているのだろう。そう思い、再び歩き出そうとした、その瞬間。
「……ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
海鳴りに混じって、すぐ耳元で、喘ぐような息遣いが聞こえた。それは人間のそれではなかった。飢えに苦しむ獣の、荒く、渇いた喘ぎ声。あの古文書の挿絵で見た、土に埋められた犬の断末魔の叫び。
恐怖に全身が凍りつく。振り返ることができない。ここにいる。すぐ後ろに、「何か」がいる。
私は、我を忘れて走り出した。転がるように坂道を駆け上がり、家の扉に飛びつく。震える手で鍵を開け、中に転がり込むと、背後で扉を閉め、鍵をかけた。荒い息を整えながら、ドアスコープから外を覗う。
夕闇に沈む坂道には、やはり誰の姿もなかった。
しかし、私の耳の奥には、あの飢えた犬の喘ぎ声が、潮鳴りの音と重なり合い、いつまでも、いつまでも、こびりついて離れなかった。あの家に帰ってきた日から、何かが始まってしまった。そしてそれは、もう引き返すことのできない、呪われた道程なのだと、私は悟っていた。




