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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第11章:その家は、女に犬神を「産ませる」ための贄殿。

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第1話:潮鳴りの家

 いつも拙作をお読みいただき、ありがとうございます。


  今回は、日本の土着信仰の中でも特に謎多き「犬神」をテーマにした、本格和風ホラーをお届けします。


 フリーの歴史研究者である主人公が、祖父の死をきっかけに訪れた故郷の家。そこで彼女を待ち受けていたのは、血と怨念に塗れた一族の宿命でした。


 じっとりと肌に纏わりつくような恐怖と、逃れられない呪いの連鎖。潮の香りが、獣の匂いに変わる時、あなたもこの物語の目撃者となるでしょう。


 部屋を少しだけ明るくして、背後にはくれぐれもご注意の上、お楽しみください。


 祖父の葬儀から、三日が過ぎた。


 蝉の声がまだ微かに残る九月の終わり、私は廃港を見下ろす崖の上の一軒家で、初めて独りの夜を迎えていた。ここは私の実家ということになっているが、物心つく前に両親を亡くし、母方の祖父母に引き取られて育った私にとって、父方の記憶はこの家にほとんどない。ただ、夏休みに数えるほど訪れた記憶の断片が、黴と潮の匂いに混じって脳裏をかすめるだけだ。その祖父が死んだ。享年九十二。大往生だったと誰もが口を揃えたが、痩せこけた頬に深く刻まれた皺は、安らかな眠りとは程遠い、何か強烈な苦悶の表情を浮かべていた。


 ギィ、と微かな音がして、私は意識を現実へと引き戻される。潮風が、塩分で白く粉を吹いた窓枠を揺らす音だ。壁に掛かった古めかしい和時計が、カチ、カチ、と乾いた秒針を刻んでいる。その二つの音が、まるで不協和音の合奏のように、この家の静寂をより一層際立たせていた。


 時刻は、午前二時を少し回ったところだった。


 葬儀後の慌ただしさから解放され、ようやく手に入れた静寂のはずなのに、私の神経は奇妙に逆立ち、全身の皮膚がぴりぴりと痺れるような感覚に襲われていた。フリーの歴史研究者として、普段から夜更かしには慣れている。むしろ、夜の静寂は思考を深めるための大切な時間だった。しかし、この家の夜は違う。静寂が、何か得体の知れないものの存在を際立たせる。それはまるで、分厚い暗幕の向こう側で、何者かが息を殺してこちらを窺っているような、濃密な気配だった。


 私はベッドから身を起こし、枕元の水を一口含んだ。ぬるい水が喉を滑り落ちていく。その時だった。


 ポツリ。


 冷たい雫が、私の額に落ちた。思わず手をやると、指先が濡れている。見上げると、寝室の天井、その中央付近に、じわりと黒い染みが広がっていくのが見えた。それはまるで、墨汁を垂らした和紙のように、ゆっくりと、しかし確実にその範囲を広げていく。


「また漏水か……」


 独りごちた声は、自分でも驚くほどか細く掠れていた。この家は古い。祖父が亡くなる前の数年間は、ほとんど手入れもされていなかったと聞く。屋根のどこかが傷んでいるのだろう。そう自分に言い聞かせようとした。だが、この数日、雨が降った記憶はない。昼間は、むしろ汗ばむほどの陽気だったはずだ。


 その時、天井裏から物音がした。


 ミシミシ、と梁が軋む音ではない。もっと有機的で、湿り気を帯びた音。何かを引きずるような、あるいは、濡れた雑巾を床に擦り付けるような、不快な音だった。音は、天井の染みが広がっている中心あたりから始まり、ゆっくりと梁を伝って移動していく。這いずるようなその音は、私の真上を通り過ぎ、やがて部屋の隅にある押し入れの上あたりで、ぴたりと止まった。


 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。全身の血が急速に冷えていくのが分かった。私は息を殺し、暗闇の中、押し入れの方向を睨みつける。そこには、祖父が生前、頑なに「開けるな」と言い聞かせ、太い釘を何本も打ち付けて封印した唐櫃からびつが置かれているはずだった。子供の頃、一度だけ興味本位で開けようとして、鬼のような形相の祖父に腕を掴まれ、生まれて初めて本気で殴られた記憶がある。それ以来、私にとってあの押し入れは禁忌の場所だった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。数秒か、あるいは数分か。張り詰めた静寂の中、私の耳は、どんな微かな音も聞き漏らすまいと緊張していた。


 不意に、押し入れの襖が、ほんの数ミリ、ひとりでに開いた。


 隙間から、冷たい空気が流れ込んでくる。そして、濃密な獣の匂い。雨に濡れた犬のような、むせ返るほどの匂いだ。私は金縛りにあったように動けず、ただその暗い隙間を見つめることしかできなかった。


 やがて、その隙間から、何かがゆっくりと垂れ下がってきた。


 黒く、濡れて艶を放つ、毛の束。


 それは間違いなく、動物の毛だった。水気をたっぷりと含み、重力に従ってまっすぐに伸びている。その先端から、ポタ、ポタ、と黒い雫が畳の上に落ち、小さな染みを作っていく。天井の染みと同じ、粘り気のある黒い液体だった。


 恐怖で声も出ない。逃げ出したいのに、身体が石のように固まって動かない。ただ、目の前の信じがたい光景を、見ていることしかできなかった。


 その時、ふわりと冷たい感触が、私の首筋を撫でた。


「ひっ……!」


 短い悲鳴を上げ、私はベッドから転げ落ちるようにして飛び起きた。部屋の電気のスイッチを手探りで探し、パニックのまま壁を叩く。数回の空振りの後、ようやくスイッチに指が触れ、カチリ、と音を立てて蛍光灯が白い光を放った。


 部屋の隅の押し入れに目をやる。襖は、ぴたりと閉まっていた。先ほどまで開いていたはずの隙間はどこにもない。畳の上に落ちていたはずの黒い雫も、濡れた毛の束も、すべてが幻だったかのように消え失せていた。


 しかし、私の首筋には、確かに冷たい感触が残っていた。まるで、氷を当てられたかのような、あるいは、死人の指で撫でられたかのような、生々しい感触が。そして、部屋の空気には、あのむせ返るような獣の匂いが、まだ微かに漂っている。


 私は震える手で自分の首筋に触れた。指先が、何かぬるりとした液体に触れる。恐る恐る指先を目の前にかざすと、そこには、天井の染みや毛束から滴っていたものと同じ、黒く粘り気のある液体が、べっとりと付着していた。


 あれは、幻覚などではなかった。


 夜が明けるまで、私は部屋の隅で膝を抱え、一睡もできずに震え続けていた。窓の外で繰り返される潮鳴りの音が、まるで飢えた獣の呻き声のように聞こえてならなかった。



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