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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第10章:肺に咲く霜華

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第4話:白籟の中の呼吸

 雪女との取引を受け入れた俺は、亡霊のような足取りで宿へと戻った。氷室の冷気はとっくに抜けているはずなのに、体の芯が凍りついたままだ。美和は俺の部屋で、眠れずに待っていた。俺の顔を見るなり、彼女は全てを察したようだった。


「……会ったのね。あの人に」

「ああ。取引をしてきた」


 俺は雪女の提案を、一言一句違わずに美和に伝えた。俺の息を山の呼吸と繋ぎ、冬の一部となること。その代償として、村への取り立てが三年猶予されること。そして、その契約の証人として、美和も氷室へ来るようにと命じられたこと。


「だめよ、そんなの! 冬の一部になるって、どういうことかわかってるの!? あなたが、あなたでなくなってしまうかもしれないのよ!」


 美和は俺の肩を掴み、激しく揺さぶった。その瞳には、怒りと恐怖、そして俺を案じる切実な想いが浮かんでいた。彼女の指先から伝わる温もりが、俺の凍てついた心にじわりと染みる。だが、俺の決意は変わらなかった。


「これしか、方法がないんだ。俺が始めたことだから。俺が、終わらせる」

「あなたのせいじゃない! 十五年前のあなたは、ただの子供だったじゃない! 生きるために必死だっただけじゃない!」

「だとしても、俺は沙羅の息で生きてきた。その借りがある。それに、これ以上、あんたや村の誰かが犠牲になるのを見るのは、もうたくさんだ」


 俺の言葉に、美和はそれ以上何も言えず、ただ唇を噛み締めた。彼女もまた、この村の理不尽なことわりを、その肌で理解しているのだ。抗うことのできない、自然の摂理と人間の罪が絡み合った、どうしようもない現実を。


 俺たちは、再び夜の闇の中を、社の奥にある氷室へと向かった。二人分の足跡だけが、しんしんと降り積もる雪の上に、暗い轍となって刻まれていく。美和は俺の腕を固く掴み、その震えが俺にまで伝わってきた。


 氷室の重い扉を開けると、中は以前よりもさらに強い青白い光で満たされていた。氷面鏡が、まるで自ら発光しているかのように、脈打つような輝きを放っている。その中央に、雪女が静かに佇んでいた。


「来たのね」


 彼女は俺たちを一瞥すると、氷面鏡へと向き直った。


「よく見ておきなさい。これが、この山の真実の姿」


 雪女が鏡の表面にそっと触れると、それまで俺たちの姿を映していた鏡面が、水のように波打ち始めた。そして、その表面に、全く別の景色が映し出された。


 それは、雪に埋もれた、夜の森の光景だった。だが、ただの景色ではない。木々の枝一本一本、降り積もる雪の一粒一粒が、まるで血管や細胞のように、複雑な光の脈となって動いている。ごう、と吹雪の音が鏡の中から聞こえ、それに合わせて、光の樹脈が力強く脈動する。それは、巨大な生命体の体内を覗き込んでいるかのようだった。


「これが、氷面鏡。あなたたちがそう呼ぶもの。でも、本当の名は『山の肺』」


 雪女は静かに告げた。


「この山は、これで呼吸をしているの。冬に息を吐き、春に息を吸う。その呼吸の循環によって、季節は巡り、命は繋がれていく。あなたたちの息は、その循環を助けるための、ほんのわずかな潤滑油にすぎない」


 鏡の中に広がる光景は、あまりに荘厳で、恐ろしかった。俺たちが生きるこの世界が、どれほど巨大で、そして不可知なシステムの末端にあるのかを、まざまざと見せつけられた気がした。人間の罪や苦悩など、この大いなる呼吸の前では、あまりに些細で、取るに足らないものなのかもしれない。


 ***


「そして、これが、十五年前の真実」


 雪女が再び鏡に触れると、景色が変わった。猛烈な吹雪が吹き荒れる、見覚えのある雪山。その中で、小さな二つの人影がもがいている。幼い俺と、妹の沙羅だ。


 鏡の中の俺は、恐怖に駆られ、妹の手を振り払って走り去っていく。俺がずっと、罪として背負い続けてきた光景。だが、雪女が示そうとしていたのは、その先だった。


 一人残された沙羅は、倒れ込み、動かなくなった。そこに、白い影――雪女が舞い降りる。俺の記憶では、彼女は沙羅を素通りし、俺の元へ来たはずだった。しかし、鏡が映し出す真実は違った。


 雪女は、雪の上に倒れる沙羅の傍らに膝をつき、その小さな体に覆いかぶさるようにして、口づけをした。それは、俺がされたものとは違う。沙羅の口から、温かい光のようなものが、ふうっと引き出され、雪女の口へと吸い込まれていく。沙羅の息が、冬へと渡っていく瞬間だった。


「あの子は、あなたよりも先に、山に選ばれたの」


 雪女の声が、冷たく響く。


「あの子の魂は、この山の冬と、とても相性が良かった。だから、山はあの子を欲した。あの子も、それを理解していた。自分が冬の一部になることで、あなたを助けられると、わかっていたのよ」


 鏡の中の沙羅は、息を奪われているというのに、その表情は不思議と安らかだった。まるで、眠りに落ちるかのように。


「あの子は、自分の息の半分を、自ら山に捧げた。そして、残りの半分を、あなたに遺した。私があなたに与えたあの温かい息は、あの子があなたのために残した、最後の分け前だったの」


 俺は、崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。俺が走り去ったから、沙羅が死んだのではない。沙羅が、俺を生かすために、自ら死を選んだのだ。俺の罪は、形を変え、さらに重く、どうしようもない宿命となって、俺の魂に刻み込まれた。俺のこの命は、この呼吸は、全て沙羅から与えられた、借り物だったのだ。


「だから、あなたは生きている。あの子の分け前の上で、ずっと呼吸を続けてきた。私の息ではなく、あなたの妹の息でね」


 雪女の言葉が、俺の罪悪感を根底から覆す。俺はただの裏切り者ではなかった。俺は、妹の尊い犠牲の上に成り立つ、生きた墓標だったのだ。涙も出なかった。あまりの真実に、感情が追いつかない。ただ、胸の奥が、張り裂けるように痛かった。


「さあ、どうするの?」


 雪女が、再び俺に問いかける。


「返すというのなら、ちゃんと返して。あの子があなたに託したものを、今度はあなたが、山に返す番よ」


 彼女はそう言うと、氷のように冷たい額を、俺の額にこつんと合わせた。その瞬間、遠い吹雪の向こうで、沙羅の笑い声が聞こえたような気がした。


 ***


「……わかった。返すよ。ちゃんと、返す」


 俺は覚悟を決めた。これは、俺の贖罪だ。沙羅の想いを無駄にしないための、俺にできる唯一のこと。


 俺は美和の方を振り返った。彼女は顔を覆い、声を殺して泣いていた。俺たちの想像を絶する真実を前に、彼女もまた打ちのめされていた。


「美和、ありがとう。もう、大丈夫だ」


 俺は彼女に微笑みかけ、そして、雪女に向き直った。


 俺は、あの濡れた白布を拾い上げ、強く、噛み締めた。そして、自分の肺に残る全ての空気を、その布へと縒り込んでいくように、ゆっくりと、しかし力強く息を吹き込み始めた。


 それは、単なる呼吸ではなかった。俺のこれまでの人生、喜び、悲しみ、そして沙羅への想い、その全てを、この息に込める。俺という存在そのものを、この布に封じ込める儀式だった。


 息を吐ききると、目の前が暗転しかけた。美和の悲鳴が遠くに聞こえる。だが、俺は倒れなかった。ふらつく俺の体を、雪女が背後から支えていた。


「よくできました」


 彼女は囁くと、俺が息を吹き込んだ白布を、その手から優しく抜き取った。そして、それを自らの口元へと運び、まるで極上の美酒を味わうかのように、ゆっくりと、その息を吸い込んだ。


 俺の息が、雪女の口へと渡っていく。その瞬間、俺の体の中で、何かが決定的に変わった。冷たさと、そしてなぜか懐かしい甘さが混じり合った不思議な感覚が、全身を駆け巡った。視界に、鏡の中に見たような、雪の樹脈が稲妻のように広がる。血管を流れる血が、まるで凍てついた川に変わっていくような感覚。


 遠くで、確かに沙羅の笑い声が響いた。『ありがとう、お兄ちゃん』。そう言われた気がした。


 俺の意識が薄れゆく中、雪女と美和の声が聞こえた。


「最後の取引よ。この男の息の半分を、これから永く、冬へ渡してもらう。その代わり、この村への取り立ては、きっかり三年、止めましょう」

「……三年……」

「ええ。三年なんて、私たちにとっては、瞬きする間よ。その間に、あなたたちがどうするか。息を繋ぐ新たな道を見つけるか、あるいは、静かに滅びを受け入れるか。それは、あなたたち次第」


 雪女はそう言うと、俺の体を美和の方へそっと押しやった。美和は泣きながら、崩れ落ちる俺を必死で抱きとめた。


「慎也! しっかりして!」


 彼女の涙が、俺の頬に落ちて、氷の粒のように弾けた。俺は彼女に何かを言おうとしたが、声が出ない。ただ、俺の口から吐き出された息は、細く、長く、白い糸のように伸びて、消えることなく、氷室の天井へと吸い込まれていった。俺の呼吸が、山の呼吸と繋がった瞬間だった。


 ***


 外に出ると、あれほど激しかった雪が、嘘のように止んでいた。空には、凍えるように冴え冴えとした月が浮かんでいる。俺は美和に肩を借りながら、一歩、また一歩と雪道を踏みしめた。不思議と、体の重さは感じなかった。


 ふと、美和が息を呑んで立ち止まった。


「慎也……足跡が……」


 彼女が指さす先を振り返ると、そこには、美和の足跡だけがくっきりと残っていた。俺が歩いてきたはずの雪の上は、誰も踏み入れていない新雪のように、ただ真っ白だった。


 足跡が、消えている。


 けれど、俺には確かに、雪を踏みしめる感覚がある。俺は、ここにいる。歩いている。だが、この世界に対する俺の重さは、もう失われてしまったのかもしれない。


 あの日から、俺の日常は静かに変貌した。


 東京に戻った俺の部屋は、真夏だというのに、窓がいつも内側からうっすらと凍っている。鏡に息を吹きかけると、一瞬だけ、白籟村の雪景色が霞んで見えることがある。取材記事の締め切りに追われ、キーボードを叩く指先は、いつも氷のように冷たい。


 俺の吐く息は、もう二度と透明には戻らなかった。常に、薄く白い軌跡を描いて、空へと溶けていく。まるで、俺の命が少しずつ、絶え間なく漏れ出しているかのように。


 時折、スマートフォンが震える。非通知のメッセージ。開くと、いつも同じ文言が記されている。


『三年なんて、すぐだよ』


 そのメッセージを見るたび、俺は窓を開け、夜空に向かって、深く、深く息を吸い込む。冷たい空気が、沙羅の分け前であるこの肺を満たす。すると、まるでそこにいるのが当たり前のように、肩の上に、ふわりと軽い重みを感じるのだ。


 それは、白い気配。


 俺の吐き出す白い息に寄り添うように、彼女はそこに寝そべっている。俺という存在が、冬と夏、生と死の境界線上で、かろうじて均衡を保っていることの証。


 俺は、冬の一部になったのだ。そして、次の『返済』の時まで、この奇妙な共生は続いていく。三年。それは、長いのだろうか、それとも、短いのだろうか。俺にはもう、その感覚すらも、曖昧になり始めていた。




 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

 主人公・慎也がたどり着いた、哀しくも奇妙な結末はいかがでしたでしょうか。


 彼が交わした「息の取引」。

 それは、妹への罪悪感から始まった贖罪の物語であり、同時に、抗えない自然の摂理と、縮小していく社会の現実が交差する場所で、人がどう「生」を繋いでいくかという問いでもありました。


 三年という猶予は、彼らにとって救いか、それとも新たな絶望の始まりか。

 真夏でも窓が凍る部屋で、慎也はこれから何を想い、どんな記事を書いていくのでしょう。

 そして、彼の肩に寝そべる白い気配は、何を囁くのでしょうか。


 もし、この物語の余韻が、皆様の心の片隅に、一輪の「霜華」のように残ったなら幸いです。


 また別の物語でお会いできる日を楽しみにしております。


silver fox


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