第3話:水底の契約
あの夜以来、家は完全に異界と化した。あの手…あれは間違いなく河童だ。僕の頭の中は、幼い頃に読んだ絵本の、頭に皿を乗せた愛嬌のある姿ではなく、あの緑がかった、鱗と藻に覆われた、悪意に満ちた異形の腕だけが、執拗に焼き付いている。
家中の水が、完全に敵性領域になった。蛇口から出る水は、明らかに緑がかり、強烈な腐臭を放つ。飲料水はペットボトルも尽きかけ、喉の渇きが灼熱の苦痛となって襲う。しかし、台所の水を飲む気には、とてもなれない。あの水を飲めば、身体の内側から、あのものが這い出してくるような気がしてならない。
小川の流れが、昼夜を問わず、家の基礎を揺るがすように響いている。ザーザー…という音は、今や絶え間ない嘲笑に聞こえる。あの呼び声が、水音に混じって、よりはっきりと聞こえるようになった。
「…こ…い…」「…み…ず…」。水を求めている。僕の身体の中の水を。恐怖と渇きで、頭はぼんやりとし、現実感が薄れていく。鏡に映る自分の顔が、緑がかって見えるのは気のせいか? 頬がこけ、目の奥が異様に窪んでいる。まるで干からびかけている。
夜、リビングの水痕の跡のそばを通りかかると、畳が微かに波打っているように見えた。吸い込まれそうな感覚に襲われ、慌てて目を離す。あの場所は、明らかに他とは温度が違う。冷気が、じっとりと床から立ち上っている。あの水溜まりは、常に開いている。河童への門が、僕の家の真ん中にぽっかりと口を開けているのだ。次に現れるのは、手だけでは済まないかもしれない。
渇きは、理性を溶かし始めた。ペットボトルの最後の一滴を舐め尽くした後、僕は台所のシンクの前に立っていた。喉は焼けつき、舌は砂のようにカラカラだ。蛇口のハンドルが、悪魔のリンゴのように輝いて見える。指が震えながら伸びる。捻れば、あの緑の水が出る。飲めば渇きはいやされる。それだけだ…。
「…だめだ…」
必死に手を引っ込める。だが、視界の端で、シンクの排水溝の金具が、微かに動いた気がした。ゆっくりと視線を移す。金具の隙間から、何かがにじみ出ている。緑がかった、半透明のゼラチン質…。それはゆっくりと盛り上がり、形を成していく。小さな、歪な円盤…。頭頂部の皿だ。伝承通りだ。その皿の中心には、水が溜まっている。澄んでいる。宝石のように透明で美しい。
渇きが、僕の思考を支配した。あの水…。あれなら飲める。きれいだ。喉の灼熱が、あの小さな水溜まりに吸い寄せられる。理性など吹き飛んだ。無我夢中で手を伸ばす。指が、冷たくヌルついた皿の縁に触れる。その瞬間、皿の中心の水が、激しい渦を巻き始めた。同時に、シンクの排水口の奥から、あの細長い指が、矢のように飛び出してきた! 僕の手首を、鉄の輪のように締め上げる!
「ひっ!」
冷たさと驚きで息を呑む。爪が皮膚に食い込み、緑の粘液がべっとりとまとわりつく。引き戻そうとするが、腕は金剛力に固定されている。排水口の闇の中に、二つの光る点が浮かんでいる。冷たく、爬虫類的な眼差しだ。その目が、僕の恐怖を、飢えを、嘲笑っている。
「…ケケ…水…か…」
排水口の奥から、水泡を立てたような声が直接に響く。あの呼び声の主だ。
「…飲み…たいか…」
その言葉に、僕は無意識に、渇ききった喉を鳴らした。河童の目が、一瞬、鋭く光った。
「…代償…を…」
「…な、何を…?」
「…お前の…『尻子玉』…を…くれ…」
伝承の言葉が、生きた悪意を持って突きつけられる。背筋が凍る。冗談ではない。冗談では済まされない。恐怖が渇きを一時的に押し流した。
「…冗談だろ…! 離せっ!」
必死で抵抗する。しかし、河童の握力は微動だにしない。むしろ、その爪が深く食い込み、チクリとした痛みが走る。シンクの底の皿の水が、誘惑的に揺れている。喉が、あの透明な水を、悲鳴を上げて欲している。
「…早く…決めろ…」河童の声に、苛立ちが混じる。「…水…渇く…な…?」
その言葉が、最後の理性の糸を切り裂いた。渇きが全てを飲み込んだ。死んでもいい。今すぐ水が欲しい!
「…わ、わかった…! やる! やるから…水を…水をくれっ!」
叫ぶと同時に、河童の握りが緩んだ。隙を見て手を引き抜き、僕は狂ったようにシンクの底の皿に顔を突っ込んだ。皿は意外に深い。冷たい、清らかな水が、焼けついた口内、喉、食道を、天国のように流れ下る。渇きが一瞬で消え去った快感。恍惚。しかし、その水は、同時に底知れぬ寒気を身体中に蔓延させた。臓腑までが凍りつくようだ。
「…ケケケ…約束…だ…」
排水口の奥から、乾いた笑い声が響き、緑の腕と皿は、水飴のように溶け、排水口の闇へと吸い込まれていった。シンクの底には、再びあの濁った水が、わずかに揺れているだけだった。僕はその場に崩れ落ち、飲み込んだ水の冷たさと、取引の重さに震えていた。代償…。あの瞬間の渇きは本物だった。しかし、今、満たされた身体の奥底で、何かが欠落する予感が、重く沈殿していた。