第3話:返すもの、奪うもの
ベッドの脇に置かれた濡れた白布は、単なる物質ではなかった。それは雪女からの最後通牒であり、俺が背負わされた十五年来の負債を象徴する、冷たい証文だった。布から立ち上る白い冷気は、部屋の空気を支配し、俺の肺を内側から凍らせていくようだった。スマートフォンの画面に浮かぶ『暖かい息、覚えてる?』という無機質な文字列が、まるで嘲笑うかのように明滅を繰り返している。
もう、一人では抱えきれない。
俺は震える手でその白布を掴み、部屋を飛び出した。布は氷のように冷たいのに、なぜか火傷するような熱を感じた。向かう先は一つしかない。美和の部屋だ。
ドアを叩く音は、自分でも驚くほど切羽詰まっていた。中から戸惑ったような声がして、チェーンが外れる音がする。ドアを開けた美和は、俺の鬼気迫る形相と、その手に握られた白布を見て、息を呑んだ。
「慎也、それ……」
「来たんだ。あいつが、俺の部屋に」
俺は彼女を部屋に押し込むようにして中に入り、ドアを閉めた。そして、これまでの経緯――伯父の社で見つけた帳面の内容、氷室での出来事、そして今しがた部屋に現れた白布とメッセージについて、半ば錯乱しながら語った。
俺の話を聞き終えた美和は、しばらく黙って俯いていた。彼女の顔色は紙のように白く、その表情は恐怖と、そして何か別の、深い苦悩に満ちていた。やがて、彼女は絞り出すような声で、衝撃的な事実を告白した。
「……私、知ってたの。要蔵さんが、何をしていたか」
その言葉に、俺は思考が停止するのを感じた。
「知ってたって……どういうことだ?」
「要蔵さんは、私に相談してきてた。神主としてじゃなく、一人の村人として。このままじゃ、村が山に喰われるって……」
美和は、村で唯一の医療従事者として、伯父の『共犯者』になっていたのだ。彼女は、村人たちの健康状態を誰よりも詳しく把握していた。そして伯父は、その情報をもとに、誰の息を『融通』してもらうかを選んでいた。もう先が長くないと診断された老人や、重い病を患い、意識が混濁している者。彼らが無意識のうちに吐き出す息を、伯父は特別な方法で少しずつ集め、山の女神への供物として捧げていたのだという。
「人の命を弄ぶようなことだって、わかってた。でも、そうしないと、健康な人や、子供たちまで危ないって……。要蔵さんは、村を守るために、罪を被る覚悟だったの。私も……私も、見て見ぬふりをした。それが、私の罪」
美和の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女もまた、この村の静かな狂気に囚われた一人だったのだ。過疎化という抗いようのない現実が、古くからの因習と結びつき、倫理の境界線を曖昧にさせていた。
「伯父さんが失踪して、その『融通』が途絶えた。だから、雪女は直接取り立てに来ている。そういうことか……」
俺の言葉に、美和はこくりと頷いた。均衡は、完全に崩れたのだ。そして、その崩壊の引き金を引いたのは、人口減少という社会の現実であり、伯父の失踪であり、そして何より、十五年前に多額の『負債』を抱え込んだ俺自身の存在だった。
「慎也、あなた、もしかして……」
美和が、俺の顔を恐る恐る見つめる。その瞳には、憐れみと恐怖が混じり合っていた。
「ああ。俺は、借りてる。あいつから、命そのものをな」
俺は濡れた白布を強く握りしめた。冷たさが、掌から心臓へと直接伝わる。もう逃げることはできない。これは、俺が始め、そして俺が終わらせなければならない物語なのだ。
***
夜の闇の中、俺は一人、再び山の社へと向かっていた。美和は「危険すぎる」と必死に引き止めたが、俺の決意は揺らがなかった。これは、誰にも代わってもらうことのできない、俺自身の問題だ。
雪を踏みしめる音だけが、しんとした空気に響く。吐く息は濃く白く、まるで魂の一部が抜け落ちていくようだ。参道の石灯籠が、雪明かりを浴びてぼんやりと浮かび上がっている。その光景は、まるで冥府への入り口のようだった。
社の前に立ち、俺は天を仰いだ。空からは、音もなく雪が舞い降り続けている。それは、優しく全てを包み込む慈悲のようでもあり、全てを凍らせて無に帰す、冷酷な意思のようでもあった。
ここで、俺は独白する。誰に聞かせるでもない、十五年間、心の奥底に封じ込めてきた罪の告白を。
「……沙羅」
妹の名を口にする。それだけで、喉が焼けるように痛んだ。
「俺は、お前の手を離した」
そうだ。あの吹雪の夜。俺は妹の手を振り払って走ったのだ。「助けを呼んでくる」という大義名分を盾にして、死の恐怖から逃れるために、たった一人の妹を吹雪の中に置き去りにした。それが真実だ。
振り返った時、沙羅の背後に、あの白い女が立っているのが見えた。その時、俺が感じたのは恐怖だけではなかった。安堵だ。これで助かる、と。自分だけは助かるのだ、と。あの女が沙羅を連れて行く代わりに、俺を見逃してくれるのではないかという、浅ましく、身勝手な期待。
だが、女は沙羅ではなく、倒れた俺に近づいてきた。そして、あの口づけ。温かい息が流れ込んできた瞬間、俺は眠りに落ちた。それは救いなどではなかった。あれは契約だったのだ。妹を見捨てた罪に対する、これは罰なのか? いや、違う。もっと根源的な、取引。俺が生きるための、代償。
「俺は、お前を見捨てて、生き延びた。あの女の息で……お前の命と引き換えに、俺は息を『借りた』んだ」
声は震え、涙が頬を伝う感覚があった。だが、すぐにそれは冷たい筋となって凍りついていく。
「だから、もう終わりにしなきゃならない」
俺は懐から、あの濡れた白布を取り出した。
「借りたものは、返す」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。自分自身に、そしてこの十五年間、俺の中で生き続けてきた罪悪感に、そう言い聞かせた。
俺は決めた。俺の息をあの女に返すことで、この負の連鎖を断ち切る。村への取り立てを止めさせ、美和や他の村人たちを解放する。それが、俺にできる唯一の償いだ。
白布を口元に当て、俺はゆっくりと息を吹き込み始めた。冷たい布が、俺の呼吸の熱を吸い、じわりと温かくなっていく。それはまるで、俺の命そのものが、この布に吸い取られていくような感覚だった。
***
白布に三度、深く息を吹き込む。それは、帳面に記されていた『息返し』の作法。俺自身の命を、意志を、この布に封じ込める儀式だった。息を吸い込むたびに肺が軋み、吐き出すたびに眩暈がした。まるで、生命力がごっそりと奪われていくようだ。
儀式を終えた白布を手に、俺は氷室へと向かった。重い扉を開けると、青白い光を放つ氷面鏡が、静かに俺を待っていた。
鏡の前に立つ。そこには、憔悴しきった自分の姿が映っていた。だが、今はもう、背後にあの女の姿は見えない。彼女は、鏡の向こうで待っているのだ。俺が、取引の席に着くのを。
「来たぞ」
俺は鏡に向かって呼びかけた。
「お前が望むものを、返しに来た」
すると、鏡の表面が、まるで水面のように揺らぎ始めた。青白い光が強まり、氷の中から、ゆっくりと人影が浮かび上がってくる。それは、鏡に映った像などではなかった。実体を持って、氷の中から滲み出てくるように、あの女――雪女が現れたのだ。
白い着物は雪そのもので編んだように輝き、長い黒髪は夜の闇を溶かしたように艶やかだった。その顔立ちは、人間離れした美しさをたたえているが、一切の感情を読み取ることはできない。ただ、その唇だけが、血の色を宿して、微かに弧を描いていた。
「……やっと、思い出したのね」
その声は、吹雪の音のようでもあり、氷柱が砕ける音のようでもあった。冷たく、澄み切った声が、氷室の中に響き渡る。
「十五年。長かったわ。あなたの息は、よく熟れていることでしょう」
彼女は俺の手の中にある白布に目をやった。
「それが、あなたの答え?」
「ああ。俺の息を返す。これで、村への取り立てをやめてもらう」
俺は、交渉のテーブルに着くように、毅然とした態度で告げた。だが、雪女はくすくすと、鈴を転がすように笑った。
「返す? あなたは、勘違いをしている」
彼女はすっと俺の目の前に移動した。足音は一切しない。まるで、空間そのものを滑るように。そして、凍えるような指先で、俺の顎に触れた。ぞっとするほどの冷たさが、肌から骨の髄まで浸透する。
「あなたは、誰の息で生きているの?」
その問いに、俺は言葉を失った。俺の息。それは、十五年前に彼女から与えられたもの。だが、その源は?
「あなたの息は、あなたのものじゃない。あれは、あなたの妹の残り半分。あの子が、山に捧げた最後の温もり」
衝撃の事実に、頭を殴られたような感覚に陥った。俺の息は、沙羅の残りだった?
「あの子は、山に選ばれたの。自ら、その息を冬に捧げた。あなたを、生かすために。あなたは、あの子の分け前で、今まで生きてきただけ」
罪悪感が、新たな絶望となって俺を打ちのめす。俺は妹を見捨てただけではなかった。俺は、妹の命そのものを喰らって、今日まで生きてきたのだ。
「さあ、どうするの? あなたが返すというその息は、もともとあなたのものではない。それでも、返すと言うの?」
雪女は、俺の瞳の奥を覗き込むように、静かに問いかけた。その目は、全てを見透かす、冷たい深淵だった。
***
「……それでも、返す」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。絶望の底で、逆に腹が据わったのかもしれない。俺が沙羅の息で生きてきたというのなら、なおさら、この取引を完遂させなければならない。それは、沙羅の意志を継ぐことであり、俺が彼女に対してできる、最後の償いだ。
「俺の息と引き換えに、村への取り立てを止めてほしい。それが条件だ」
俺がそう言うと、雪女は初めて、その表情に興味の色を浮かべた。
「面白いことを言うのね。自分の命と引き換えに、他の者たちを救うと? まるで、物語の主人公気取り」
彼女は嘲るように言った。だが、その声には、どこか試すような響きがあった。
「だが、足りないわ」
その言葉は、伯父の帳面に書かれていた一言と、全く同じだった。
「足りない?」
「ええ。息は、連鎖するもの。一つの息は、次の息へと繋がっていく。村全体の息が細くなっている今、あなた一人の息を貰ったところで、この冬を越すには足りないのよ」
雪女の言葉は、冷酷な真理だった。俺一人の命で、村全体の負債を清算することなどできはしない。俺の覚悟は、ただの自己満足に過ぎなかったのか。
俺が絶望に打ちひしがれていると、雪女はふっと、何かを思いついたように言った。
「でも、方法がないわけではないわ」
彼女は俺の周りをゆっくりと歩きながら、語り始めた。
「あなたを、冬の『一部』にするの。あなたの息を、山の呼吸と繋げる。そうすれば、あなたは息を返し続けながら、生きることもできる。そして、あなたの息が山に流れ込むことで、他の者たちへの取り立てを、しばらくは猶予してあげましょう」
冬の一部になる。それは、一体どういうことなのか。半分、人ならざるものになるということか。
「どうかしら? あなたの息全てを一度に奪う代わりに、少しずつ、長く、貰い受ける。その代わり、村は見逃してあげる。あなたにとっては、悪くない取引でしょう?」
それは、悪魔の囁きだった。だが、今の俺には、それしか選択肢が残されていないように思えた。村を救い、沙羅への償いを果たし、そして俺自身も生き延びる。あまりに都合の良い話に聞こえるが、その代償は、俺の存在そのものを変質させることだ。
「……わかった。その取引、受けよう」
俺が答えると、雪女は満足そうに微笑んだ。その笑みは、これまで見せたどんな表情よりも、美しく、そして恐ろしかった。
「賢明な判断ね。では、契約を始めましょう。あの看護師の女も、連れてきなさい。証人が必要よ」
彼女はそう言うと、すっと姿を氷面鏡の中へと消していった。後には、凍えるような静寂と、俺の手に握られた白布だけが残された。
俺は、これから自分が何をしようとしているのか、その本当の意味をまだ理解していなかった。ただ、後戻りのできない一歩を踏み出してしまったことだけは、確かだった。俺は、人間としての自分の一部を差し出し、山の理と、直接契約を結ぼうとしているのだ。




