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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第10章:肺に咲く霜華

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第1話:雪の口づけ

 この度は、数ある作品の中から本作『白籟の息』に目を留めていただき、誠にありがとうございます。


 舞台は、雪に閉ざされた小さな村。

 そこに潜むのは、人の「息」をめぐる、冷たくも美しい怪異です。


 派手な絶叫やスプラッターではなく、吐く息の白さ、窓を曇らせる霜、雪を踏む音のない足跡といった、日常に潜む静かな違和感が、じわりと心を蝕んでいく……。そんなジャパニーズホラーを目指しました。


 凍える夜、暖かい部屋でこの物語を読みながら、ふとご自身の吐く息が白く見えたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。


 それでは、どうぞ最後まで、この凍てつく物語にお付き合いください。


silver fox

 東京のコンクリートジャングルが吐き出す生暖かい排気ガスに慣れきった肺にとって、故郷の駅に降り立った瞬間に流れ込んできた空気は、あまりに純粋で、そして暴力的なまでに冷たかった。思わず身を竦ませ、ごほ、と咳が漏れる。吐き出した息は、まるで魂が抜け出ていくかのように濃い白となって、冬の午後の光の中で形を保ったまま、ゆっくりと空に溶けていった。


「慎也、こっち」


 懐かしい声に顔を上げると、駅舎の出口で、ダウンジャケットのフードを深く被った人影が小さく手を振っていた。幼なじみの美和だ。彼女の周りだけ、空気が少しだけ柔らかく見えた。


「悪いな、美和。迎えまで頼んじまって」

「いいってことよ。どうせ帰り道だし。それより、あんたこそ物好きだね。こんな雪しかない時期に、わざわざ帰ってくるなんて」


 軽口を叩きながらも、その声には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。看護師として村唯一の診療所に勤める彼女が、過疎化と高齢化が進むこの白籟村しららいむらでどれほど忙殺されているかは、想像に難くない。


「仕事だよ、一応。この豪雪も、都会の人間にとっては格好のルポルタージュネタになる」

「……取材、ね」


 美和は何かを言いかけて、唇を結んだ。彼女の吐く息もまた、痛々しいほどに白い。俺は自分の本当の目的――十五年前にこの村を捨てて以来、一度も連絡を取っていない伯父、要蔵の安否確認――を言い出せずにいた。山の社を守る神主だった伯父。雪を鎮める古い祭祀の担い手。その彼が、数ヶ月前から誰とも連絡が取れないという。


 美和の運転する軽自動車が、除雪された国道を離れ、旧道へと入っていく。車窓の外は、白と黒のモノクロームの世界だ。雪を重そうに被った木々の枝が、まるで墨で描かれたように空に伸びている。


「最近、変なんだ」


 ぽつりと、美和が呟いた。


「変、とは?」

「……亡くなる人が、少し増えてて。お年寄りが多いから、寿命だって言われればそれまでなんだけど」


 彼女はハンドルを握る手に力を込めた。


「ただ、みんな妙なんだよ。発見された時、口元にうっすらと霜がついてるの。まるで、凍えるような冷たい空気を、最期に吸い込んだみたいに」


 口元に霜。その言葉が、俺の胸の奥に小さな氷の棘となって突き刺さった。忘れていたはずの、古い記憶の断片がちりりと痛む。


「凍死……じゃないのか?」

「違う。だって、亡くなったのは暖かい室内なんだよ。ストーブもついたままの部屋で、眠るように亡くなってる。なのに、口元だけが凍えてる」


 美和の声は、職業的変形プロフェッショナル・デフォルマシオンというにはあまりに切実で、恐怖に震えていた。医師にも説明がつかない、と彼女は付け加える。肺に霜が咲いていた、なんて詩的なことを口走った若い医者もいたらしい。


 車が宿に着くまでの短い時間、俺たちは無言だった。ただ、ワイパーが雪を掻く単調な音と、ヒーターの送風音だけが、狭い車内に響いていた。


 ***


 宿は、村で唯一の古い旅館だった。ぎしぎしと鳴る廊下を渡り、通された部屋の窓を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でる。眼下には、雪に覆われた村の家々が、夕暮れの蒼い光の中に沈んでいた。夜になれば、この景色は雪明かりだけが照らす、静寂の海になるのだろう。


 荷物を解き、一息ついたところで、俺は再び窓の外に目をやった。日はほとんど落ち、空と雪原の境界が曖昧になっている。その、境界の上を、何かが動いた気がした。


 目を凝らす。


 遠くの雪原を、黒い人影が横切っていく。女だ。長い髪が風に煽られている。だが、何かがおかしい。


 足跡がない。


 新雪が降り積もったばかりの、誰も踏み入れていないはずの雪の上に、その女の足跡だけが、どこにも見当たらないのだ。まるで、数センチだけ宙に浮いて滑るように、女は進んでいく。俺は窓枠に乗り出すようにして、その姿を追った。


 その瞬間、女がぴたりと動きを止め、こちらを振り向いた。


 距離があるはずなのに、その顔がすぐそこにあるかのように感じられた。表情までは見えない。だが、確かに俺を見ている。そう確信した。


 ごう、と突風が吹きつけ、宿の古い窓が悲鳴を上げるように揺れた。俺は思わず目を閉じる。風が止み、再び目を開けたときには、もう女の姿はどこにもなかった。幻だったのか。疲れているのか。


 だが、風に乗って、声だけが耳に残っていた。


 囁くような、鈴を転がすような、それでいて芯まで凍らせるような声。


『息は、借り物』


『返しに、おいで』


 俺は弾かれたように窓を閉め、鍵をかけた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。借り物? 何を返すというんだ。あの女は一体誰なんだ。


 思考がまとまらない。ただ、あの声には聞き覚えがあった。いつか、どこかで。遠い昔、この身を凍らせる吹雪の中で、聞いたような気がした。


 ***


 その夜、俺は浅い眠りと覚醒を繰り返していた。都会の喧騒とは違う、雪が全てを吸い込むような絶対的な静寂が、逆に神経を逆撫でする。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ふと、寒気で目が覚めた。部屋の空気が、眠る前よりも格段に冷え込んでいる。暖房はついているはずなのに、吐く息が白い。


 何気なく、窓に目をやった俺は息を呑んだ。


 窓ガラスが、凍りついている。それも、外側からではない。内側からだ。まるで、部屋の中から絶対零度の何かが窓に触れたかのように、霜の結晶が複雑な模様を描いていた。


 そして、その霜の模様の中心に、それはあった。


 指の跡だ。


 細く、しなやかな五本の指が、ガラスを内側からそっと押さえている。その指の跡から、まるで花弁が開くように、氷の結晶が放射状に広がっていた。白い、指の跡。それはまるで、冷たい何かを証明するかのように、そこに在った。


 俺はベッドから動けなかった。金縛りにあったように、ただその異様な光景を見つめることしかできない。あれは、あの女の指の跡なのだろうか。いつの間に、この部屋に?


 恐怖に引き攣った喉から、か細い息が漏れる。その自分の息がガラスにかかり、指の跡の隣に、丸く白い曇りが生まれた。


 その時だった。


 俺が息を吹きかけたその曇りの中に、別の何かが、ゆっくりと浮かび上がってきた。


 女の横顔だった。


 長い髪、すっと通った鼻筋、そして、わずかに開かれた唇。それは、俺が吐き出した息の向こう側から、まるで鏡の中から現れるようにして、そこにいた。そして、その唇が、俺の唇と寸分違わぬ位置で、重なった。


 ガラス越しの口づけ。


 俺の吐息と、彼女の吐息が混じり合う。その瞬間、脳裏に閃光が走った。


 そうだ。思い出した。


 十五年前。まだ十四歳だった妹の沙羅と、冬の山で道に迷ったあの吹雪の夜。体温は奪われ、意識が遠のいていく中、俺は沙羅の手を離してしまった。「助けを呼んでくる」と、今思えば無謀で、身勝手な言い訳を残して。


 一人、雪の中を彷徨い、倒れた俺の上に、誰かが覆いかぶさった。白い着物を着た、美しい女。その顔は凍えるほど冷たいのに、その唇だけが、不思議と温かかった。


 女は俺に口づけをした。


 それは、ただの口づけではなかった。彼女の口から、温かい空気が、命そのものが、俺の肺へと流れ込んでくる。冷え切った身体が、内側から熱を取り戻していく。朦朧とする意識の中で、俺はただ貪るように、その温かい息を受け入れた。


 あれは、救いだったのだ。あの口づけがあったから、俺は生き延びた。


 そして――その直後、妹の沙羅は、神隠しにあったかのように、この村から消えた。


 窓ガラスに映った女の横顔が、満足したように、ふっと微笑んだように見えた。次の瞬間、それは陽炎のように掻き消え、後には複雑な霜の模様だけが残されていた。


 ***


 翌朝、俺はほとんど眠れないまま、伯父の住まいでもある山の社へと向かった。昨夜の出来事が夢ではないことは、未だにうっすらと霜が残る窓ガラスが証明していた。あの女は、十五年前の記憶を呼び覚ましにきたのだ。『息は借り物』という言葉と共に。


 雪深い参道を登りきると、しんと静まり返った社が現れた。人の気配はない。呼びかけても返事はなく、社務所の引き戸には鍵がかかっていなかった。


「ごめんください」


 声をかけながら中に入る。そこは、伯父が失踪したと聞いていた通り、時が止まったかのように整然としていたが、同時に、主を失った家の持つ独特の冷気が満ちていた。


 居間の文机の上に、一冊の古い和綴じの帳面が置かれているのが目に入った。墨で書かれた文字が並んでいる。何気なく手に取り、表紙を見ると、そこには『息返し』と記されていた。


 息を返す。その言葉に、心臓が掴まれたような心地がした。ページをめくる。そこには、この村に古くから伝わる祭祀の手順であろう事柄が、細かな文字で記されていた。


『冬至を前に、山へ息を返すべし』

『白布に己が息を三度吹きかけ、これを氷糸にて固く結ぶ』

『社の奥、氷室に鎮座する氷面鏡ひもかがみに、これを捧げるべし』


 白布、氷糸、氷面鏡。知らない単語ばかりが並ぶ。だが、その意味するところは、嫌というほど直感的に理解できた。これは、山の何かと、人間の間で交わされる、息の取引の記録だ。


 俺は帳面を読み進めていった。歴代の神主であろう者たちの手で、毎年毎年、その儀式が執り行われてきたことが記されている。そして、最後のページ。そこには、伯父・要蔵のものと思われる、震えるような筆跡があった。


 日付は、昨年の冬至に近いものだった。そこに書かれていたのは、儀式の手順ではない。ただ一言、悲痛な叫びのような言葉が、欄外に書き殴られていた。


『今年は、足りない』


 足りない。何が足りないというのか。捧げるべき、息が?


 その瞬間、美和の言葉が脳裏に蘇った。『口元に霜をつけて倒れている人』。伯父が失踪し、正式な担い手がいなくなったことで、儀式が滞った。だから、山は――あの女は、自ら『足りない』分を取り立てに来ているのではないか。


 そして、俺は。十五年前に、あの女から一方的に息を与えられた俺は、最大の『借り手』なのではないか。


 帳面を持つ手が、震えていた。これは単なる雪害取材ではない。俺は、逃れられない取引の渦中に、自ら戻ってきてしまったのだ。


 窓の外で、また風がごうと鳴った。それはまるで、返済を催促する、冷たい溜息のように聞こえた。


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