表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第9章:蔵の胎内は、姉を喰らう:

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/53

第1話:蔵の格子窓は、姉を覗く

 この物語に興味を持っていただき、ありがとうございます。

 作者のsilver foxです。


「蔵は生きている」


 古い屋敷に佇む不気味な蔵と、そこに住まう姉妹の物語です。

 夜ごと響く蔵の胎動、格子窓から覗く無数の影、そして家に代々伝わる忌まわしい因習。


 逃れられない呪いが、明るかったはずの日常を静かに蝕んでいきます。

 和風ホラーならではの閉鎖的な恐怖と、姉妹の絆の行方にご注目ください。


 ※本作には読者を不安にさせるグロテスクな描写や、暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意ください。


 それでは、蔵の胎内に響く声に、耳を澄ませてみてください。


 蔵は生きている。


 十七年の生涯を、この古い屋敷の縁側で過ごした私にはわかる。蔵が呼吸する音は、夜ごと壁を伝い、畳の下で蠢く。祖母は言う。「蔵には近づくな」と。その目には、いつも濁った水溜りのような恐怖が浮かんでいる。


「楓、お前も蔵の前を通るな」

 祖母が姉の腕を掴んだ。枯れた指が白い肌に食い込む。

「ああ、ばあちゃん、痛いよ」

 楓が笑って振りほどく。姉は明るい。私とは違う。この屋敷の湿った空気を、彼女だけが軽やかに泳ぐ。

「冗談じゃないぞ…蔵は、女を狙う…」

 祖母の呟きは、風に消えた。


 今日も蔵が震えた。雨の匂いのする午後、蔵の重い木戸が微かに揺れ、錆びた鍵穴から冷たい息が漏れる。私は縁側で教科書を広げていたが、文字が滲む。蔵の鼓動が耳朶に絡みつく。ドクン。ドクン。それは胎児の心音のようであり、腐った果実が地面に堕ちる音にも似ていた。


「あれ? 梓、教科書濡れてるよ」

 楓が近づき、私のページをめくる。彼女の指先が、ふと静止した。

「…蔵、今日も動いてるね」

 姉の声に、かすかな震えが混じっている。見上げると、彼女の顔色が蝋のように青ざめている。視線は蔵の二階部分、あの格子窓の暗がりへ釘付けだ。

「楓、どうしたの?」

「…今、窓に影が映った。小さな手の形が。べったりと…」


 格子窓は、闇を吸い込む口のように開いていた。



 姉が変わった。


 あの日から、楓は蔵を避けるようになった。食堂で箸を取れば、手が震える。廊下の影に飛び上がる。そして夜、彼女の寝室からは、歯を食いしばるような微かな呻きが漏れる。


「楓、大丈夫?」

 昨夜、私は彼女の布団の裾を引いた。姉はぐっしょりと汗に濡れ、目を見開いていた。瞳孔が過剰に広がり、闇そのものを映している。

「…あの子たちが…蔵の窓に…毎晩…」

 彼女の指が、冷たく私の手首を握る。

「手を伸ばしてくるの。黒くて…細くて…骨ばった指が…私を呼んでいる…」


 今朝、蔵の前に異変があった。湿った土の地面に、無数の小さな足跡が刻まれている。人間の子供のものより細く、不自然に長い指の跡だ。足跡は蔵の木戸へと続き、そこで途切れる。木戸の下部には、黒ずんだ染みが幾つもついていた。乾いた血のようだ。


「気にするな」

 父が無造作にホウキで足跡を消した。母は黙って窓を拭く。二人の背中は、蔵に対する恐怖よりも深い諦めで固まっている。

「あの足跡…何なの?」

 私が尋ねると、父の手が止まった。

「…雀の足跡だよ。梓は勉強しなさい」

 嘘だ。雀の足跡はこんなに深くない。こんなに人間臭くない。


 夕暮れ、私は勇気を振り絞って蔵に近づいた。木戸の錆びた鍵穴を覗く。闇。深い、濃密な闇。しかし、その闇が動いた。無数の小さな光点が浮かぶ。それは瞳だ。飢えた子らの瞳が、鍵穴の向こうで一斉に私を見上げる。冷たい吐息が顔にかかる。甘ったるい腐敗臭。


 私は後ずさりし、足を取られる。見下ろせば、土中から黒い細い腕が伸び、私の足首を握っていた。それは氷のように冷たく、皮膚の下で骨を軋ませる。悲鳴が喉で凍りつく。その腕は、ゆっくりと、確実に、私を蔵の木戸へと引きずり込もうとする――


「梓!」

 祖母の叫び。鋭い物音と共に、黒い腕が煙のように消えた。祖母が投げつけた古い柄杓が地面に転がっている。彼女の顔は死人のようだ。

「…見せられたか。お前にも…」

 祖母の呟きは、確かな絶望の響きを帯びていた。



 蔵の二階は、この家の墓場だ。


 古いアルバムを発見したのは、押し入れの奥の埃まみれの箱の中だった。明治か大正の写真。無表情な人々が整列する中、数枚のページが無残に切り取られている。切り口は鋭く、乱暴だ。切り取られた部分の裏に、滲んだインクで書かれていた。


『継がざる者 断つべし』


 そして最後のページ。昭和初期の写真か。若き日の曾祖母らしき女性が、無理やり笑みを浮かべている。その懐には、首のない人形が抱かれている。人形の服には、蔵の格子窓と同じ模様が刺繍されている。曾祖母の目には、底知れぬ悲しみが刻まれていた。


「楓が…あの子たちに見せられているのは、この人形なのか?」

 私の独り言に、背後で祖母が息を詰まらせた。振り返れば、彼女は障子に凭れ、目を閉じている。頬を伝う一筋の涙が、深い皺に吸い込まれる。

「…お前たちの曾祖母の妹だ」祖母の声は砂を噛むようだった。「七つで蔵に消えた。次の冬、人形だけが雪の庭に落ちていた」

「なぜ…?」


 祖母は答えない。代わりに、箪笎の引き出しから古い木箱を取り出した。蓋を開ける。中には、乾いたへその緒が幾つも、丁寧に包まれた和紙に収められている。それぞれに名前と年月日。全て女児のものだ。

「…この家の女は、代々、蔵を鎮める『器』を産む。産まぬ者は、蔵に捧げられる」

 祖母の指が、一番新しい小さなへその緒を撫でる。私のものだ。

「楓は強い。だからこそ…蔵が欲する」


 廊下で物が倒れる音。楓の部屋だ。駆けつけると、姉が痙攣しながら床に転がっている。口から泡を吹き、白眼を剥く。その首筋に、黒い指痕がくっきりと浮かび上がっている。冷たく、深く、皮膚の下で紫色に輝く。



 蔵の暴走は止まらない。


 家中に、あの小さな足跡が現れる。台所の流し、風呂場の鏡、私の枕元。夜ごと、格子窓の影が増える。べったりと張り付く子らの輪郭が、ゆっくりと、ゆっくりと、窓ガラスを埋め尽くす。


 楓は崩れた。ほとんどベッドから出られない。熱は下がらず、首の指痕は腫れ上がり、膿のような黒い液体を滲ませている。彼女の囁きは意味を失った。

「…早く…蔵が…お腹空いてる…」


 今夜は満月だ。祖母が言った。「蔵の胎動が最も激しい夜」と。家中に重い沈黙が張り詰める。両親は仏間に籠り、読経する声が微かに漏れる。祈りか、詫びか。


 私は楓の布団の傍で手を握っていた。姉の手は火のように熱い。突然、彼女の体が弓なりに反り返った。目を見開き、蔵の方向を指さす。声帯が軋む。

「…あ…あ…」


 蔵の方向から、重い物を引きずる音。ザザ…ザザ…それは蔵の二階から階段を下りる音だ。誰かが重い袋を引きずっている。否、何かが這い降りている。


「ついに…来たか…」

 祖母が仏間から現れた。手には古い短刀。刃は錆びているが、切っ先だけが不気味に冴える。その目は、楓を見つめている。

「ばあちゃん…?」

「ごめんよ、楓」祖母の声に涙が混じる。「お前を捧げるより他、この家を守る術はない…『箱回し』の儀式だ…」


 なんと蔵そのものが「コトリバコ」だった! この屋敷は、呪いを封じた箱を守る「回し屋」の役目を代々担ってきたのだ!


「やめて! 楓を殺さないで!」

 私が祖母に飛びかかる。しかし遅い。祖母の短刀が振り下ろされようとした刹那――


 蔵の木戸が内側から吹き飛んだ!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ