第2話:蔵の残骸に、花は咲かず
木片が舞う。蔵の闇が、濃厚な液状となって流れ出した。その黒い粘液の中から、無数の細い腕が伸びる。骨と皮だけの腕が、祖母の足を、腰を、がっちりと掴んだ。
「ぐあっ!」
祖母が床に倒れる。短刀が離れる。黒い腕は祖母を蔵の闇の中へ引きずり込もうとする。祖母の悲鳴が家中に響く。
「お前たち…まだ…恨むのか…!」
祖母の叫びに、蔵の闇が波打つ。粘液の中から、ゆっくりと「何か」が浮かび上がる。それは人間の胎児の形をしているが、皮膚は黒く爛れ、無数の傷口から蛆虫のような黒い影が蠢いている。頭部は異常に大きく、裂けた口には鋭い歯が並ぶ。その全身を、細い黒い腕が無数に支えている。腕は胎児の体から生えているのではなく、むしろ胎児を無理やり形成するために集められたようだ。
『還せ…我らの肉…骨…声…』
胎児の口からではなく、蔵全体から響く声。無数の子供の声が重なり、歪む。
祖母は泣き笑いしながら叫ぶ。
「還せるか…! お前たちは呪いの種子だ! この家が…世が…穢れる…!」
胎児の怪物が、祖母へと手を伸ばす。その指先が祖母の胸に触れた瞬間、祖母の体がみるみる萎縮し、叫び声が詰まった。声を奪われている!
動け。早く動け。
足がすくむ中、私は楓の布団へ飛んだ。姉は微かに震えている。首の黒い痣は、胎児の怪物の動きに呼応するように脈打つ。
「楓! 起きて!」
揺さぶる。姉の目がかすかに開く。瞳は虚ろだが、私を見た。
「…梓…逃げ…ろ…」
「一緒に逃げるの!」
姉を背負い立とうとした。重い。彼女の体は異常に冷たく、黒い痣から粘ついた液体がにじむ。その時、背筋に鋭い衝撃が走った。胎児の怪物が放った黒い腕が、私の背中を鞭のように打った。熱い痛み。皮膚が裂ける感覚。
「ぎゃっ!」
倒れ込む。楓が床に転がる。怪物の無数の瞳が、楓へと集中する。裂けた口が歪み、飢餓の笑みを浮かべる。
『捧げもの…受け取る…』
怪物が楓へと蠢く。祖母は声を奪われ、もがくだけ。両親の読経は止んだが、仏間からは動く気配がない。守るべき家族を守れない呪いの管理者の末路か。
「楓を…渡さない…!」
私は倒れた祖母の傍らに落ちた短刀を掴んだ。錆びた刃。しかし切っ先は冷たい。怪物が楓に触れようとする瞬間、私はその腕めがけて短刀を振り下ろした!
ズブッ!
鈍い手応え。黒い粘液が噴き出す。悪臭。切られた腕が地面で蠢く。怪物は痛みを感じない。無数の瞳が一斉に私を睨む。切った傷口から、新たな細い腕がにゅるりと伸びてくる。
『継ぐ者…喰らう…』
怪物の声が変わる。矛先が楓から私へ向いた。蔵の闇が膨張する。壁を這う黒い影が、私へと手を伸ばす。
逃げ場はない。
黒い腕の洪水が迫る。背後の楓は微かな息をしているだけ。祖母は枯れ葉のように縮こまり、声なき呻きを漏らす。仏間の障子の隙間から、両親の怯えた目だけが見える。
怪物の胎児が、ゆらりと宙に浮く。無数の腕が私を指さす。
『捧げもの…足りぬ…継ぐ者の血…欲する…』
理解が走る。この怪物…蔵に封じられた無念の子供たちは、本来の敵対する一族の女児を喰らうために作られた「コトリバコ」の化身だ。しかし時を経て管理者であるこの家の女児までもを喰らおうとしている。呪いが管理者の血を欲している。私の血を。
「…くっ…」
私は短刀の切っ先を、自分の左手首に向けた。古い傷跡がある。幼い頃、蔵の錆びた釘でついた傷だ。祖母はその傷を見て、蒼白になったことを覚えている。
「…欲しいのか…」怪物へ向かって、傷跡を見せる。「私の血を…」
怪物の動きが止まる。全ての瞳が傷跡に集中する。蔵の闇が期待に震える。祖母が必死に首を振るが、声は出ない。
「くれてやる…!」
私は叫び、短刀を振りかぶった -その刃を、自分の腕ではなく、胎児の怪物の巨大な頭部めがけて投げつけた!
「呪いごと消えろ!」
短刀が回転しながら飛ぶ。怪物は避けようとした。遅い。錆びた切っ先が、胎児の片目を貫く!
『ぎゃああああああああっ!!!!!』
蔵全体から絞り出すような絶叫。胎児の傷口から黒い粘液が噴出し、支えていた無数の腕が激しく痙攣する。胎児は空中でよろめき、闇が渦を巻く。傷ついた一つの瞳が、狂おしい憎悪を湛えて私を睨む。
『呪う…! 継ぐ者…永遠に…縛る…!』
胎児の体が内側から膨張し、光る。爆発か? 私は楓に覆いかぶさった。凄まじい衝撃。熱風と悪臭。黒い粘液の雨。
*
静かだ。
重い沈黙が屋敷を覆う。蔵は半壊し、黒い粘液と無数の細い腕の残骸が散乱している。胎児の怪物は消えた。祖母は気絶し、楓はかすかに息をしている。
「…やった…のか…?」
仏間から父がよろめき出てきた。母が泣きながら祖母に駆け寄る。
私は楓の体を抱き起こした。姉の首の黒い痣は、少し色が薄れているようだ。安堵の息が漏れる。その時、楓の目がぱっちりと開いた。彼女は私を見つめ、そして -私の首筋を指さした。目に映る恐怖。
「…梓…あなたの首…」
冷たい指が触れる感覚。震える手で自分の首筋を撫でる。そこには、楓のものと同じ位置に、小さな、しかし確かな黒い痣が浮かび上がっていた。それは氷のように冷たく、皮膚の奥深くで微かに蠢いている。怪物の最期の言葉が蘇る。
『永遠に…縛る…』
蔵は壊れた。だが、呪いは消えなかった。管理者を喰らえなかった代償として、新たな「器」を印したのだ。私は楓を抱きしめた。姉の温もりが、首筋の痣の冷たさを際立たせる。
蔵の残骸の影で、小さな足跡が、新たに土を踏みしめていた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「第9章:蔵の胎内は、姉を喰らう」、いかがでしたでしょうか。
今回は「コトリバコ」の伝承をモチーフに、呪いを管理する一族に生まれた姉妹の悲劇を描いてみました。怪異を退けたかのように見えて、その呪いは形を変えて妹へと受け継がれてしまう…そんな救いのない結末に、ぞくりとしていただけたなら幸いです。
守るべきものと、守るために払う犠牲。その歪んだ天秤がもたらす恐怖を感じていただけたなら、作者として嬉しい限りです。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。
それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。
作者:silver fox




