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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第8章:傘を貸せ、鏡の底へ

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第2話:腐船の帰還

 三日目の夜、ついにエレベーターが動いた。深夜一時、廊下に鈍い機械音と共に、誰も呼んでいないエレベーターが、ぼくの住む四階で停止したのだ。チリ──ンとベルの音は歪み、長く引き延ばされて不気味に響く。


 ドアが滑り開く。中は濃密な闇と、酷い水腐れの臭いが充満している。懐中電灯を向ける。壁面はべっとりと濡れ、床には浅く水が溜まっている。そして、隅に寄り集まるように、ぼく以外の「乗客」が立っていた。半透明で、服は時代がかった作業服、顔は水に長く漬かったように膨れ、白濁した目を虚空に向けている。皆、口をぱくぱくと動かしている。声は聞こえないが、その口形は明らかに繰り返している。


『カサヲカセ』


 冷気が脊髄を駆け上がる。ドアが閉まりかける。反射的に飛び出し、背中で鉄の扉を押さえた。閉じたドアの向こうで、軋む音と共に、エレベーターはゆっくりと下降していく。行き先表示ランプは「B」――地下駐車場を指したまま、点滅し続ける。


 団地そのものが、水底へ向かう幽霊船と化したのか?


 不安は確信に変わった。次の日、団地の壁、特に水気の多い場所に、奇妙な落書きが現れ始めた。子供の悪戯とも思えるが、どれもが鏡文字文字ばかりだ。


『ミヅノソコヘオイデ』

『ワレラトモニナレ』

 そして、繰り返し現れる言葉――『カセ サカヲ』


 意味を理解しようとするだけで、頭が締め付けられるような痛みが走る。タキ婆さんが言っていた「底へ引き摺り込む」意志が、歪んだ形で現実に滲み出している。ぼくのオッドアイは、それらの文字から滲む青黒いオーラを捉え、視界が歪む。壁の時計の針が再び粘液のように伸び、四時のはずが、なぜか新月の闇を告げる深夜のように感じられる。時間感覚が狂わされる。


 廊下の向こうで小野寺管理人の後ろ姿が見えた。ぼくが近づくと、彼はゆっくりと振り向いた。その顔は普段と変わらないが、首の角度が不自然に傾いている。そして、彼の動く唇から、前と同じ、逆さにひっくり返った言葉が零れた。


「……ネウチサヌ アナタモ、レイ……」

(……沈まぬ あなたも、澪……)


 彼の足元の水溜りが、突然、深淵のように見えた。



 限界だった。現象はエスカレートし、部屋の中さえ安全ではなくなった。蛇口をひねれば濁った水しか出ず、トイレの排水口からは「カサヲ…」という声が絶え間なく響く。窓の外には、真夏の夜空にありえない濃霧が立ち込め、団地を孤立した幽霊船のように浮かび上がらせている。新月の夜だ。


 タキ婆さんから預かった底抜けの傘を握りしめる。これは、彼女なりの「防御策」か? 船幽霊伝説で言う、底の抜けた柄杓と同じ意味を持つのか? 米や灰、線香――伝承にある退治の品々を、ぼくは可能な限り集めた。洗い米、線香の束、ストーブの灰、枯れかけた庭の花。全てをリュックに詰め込む。


 決戦の場は地下駐車場。エレベーターシャフトが直接繋がる、かつての「鏡沼」の底だ。階段を下りる度に、足を引っ張る水の重さが増す。地下への扉の前で、冷気が衣服を貫通する。鉄の扉には、新しい巨大な逆さ文字が、血の如き赤いペンキで書かれている。


『イラッシャイ』


 ぼくは底抜け傘を杖のように突き、左手に洗い米を握りしめた。金色の左目が、扉の向こうに渦巻く青白いオーラを捉え、激しく疼く。


 鉄の扉を押し開ける。腐敗した水と藻の強烈な臭いが、喉元を締め上げる。地下駐車場は、膝まで届く濁った水に沈んでいた。水面には油のような虹色の膜が張り、所々で泡がブクブクと湧き上がる。まるで巨大な水棺の中だ。


 懐中電灯の光が揺れる。水の中に、無数の影が立っている。膨れ上がった顔、白濁した目――エレベーターで見た亡者たちだ。そして中心に、他の影より大きく、黒く淀んだオーラを放つ存在。それは小野寺管理人の姿を借りているが、首は不自然に折れ、口から大量の水と藻を流し出している。


「カサヲカセ」


 重低音のように響く声が、水と壁を震わせた。影たちが一斉にぼくへ手を伸ばす。冷気の触手が足首を掴んだ。


 ぼくは持っていた洗い米を水中へばら撒いた。次に線香に火をつけ、花と共に水へ投げ込む。ストーブの灰を風に乗せて散らす。


「フゥーッ!」


 濁流が唸りを上げ、影たちが一瞬たじろいだ。しかし中心の黒い存在は動じない。巨大な水の塊のような腕を上げ、濁流が壁のように迫る!


 その瞬間、高知の伝承が脳裏をかすめた。ぼくは底抜けの傘を水に突き立て、その黒い存在を金色の左目で見据え、喉を震わせて叫んだ。


「わしは土左衛門だ! お前らと同類だ!」


 迫り来る水の壁が、突然、空中で静止した。中心の黒い存在が、信じられないというように大きく歪んだ。その隙に、ぼくは持っていた全ての燃え残りの薪と灰を、その存在めがけて投げつけた!


「ドサッ!」


 鈍い音と共に、黒い塊が崩れ落ちる。同時に、足元を掴んでいた冷たい感触が消えた。周囲の亡者の影が、霧のように薄れていく。膝まであった水が、みるみる引き、コンクリートの床がむき出しになる。静寂が訪れた。


 ……終わったのか?


 ふと、自分の姿が水溜りに映る。そこには、金色の左目が異様な輝きを放ち、口元に、自分でも気づかなかった、底知れぬ深みへ誘うような、安堵とも諦めともつかない歪んだ笑みが浮かんでいるのが見えた。


 水面の笑みが、ゆっくりと、ゆっくりと、大きく歪んだ。




 水溜りの底で、ぼくの金色の左目だけが、再び深淵の胎動を捉えていた。



 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 「第8章:傘を貸せ、鏡の底へ」、いかがでしたでしょうか。


 船幽霊の伝承をモチーフに、閉鎖された団地という空間でじわじわと追い詰められていく恐怖を描いてみました。主人公が機転を利かせて切り抜けたかのように見えましたが、最後の最後で彼自身もまた、深淵に取り込まれつつあることを示唆して終わる、という後味の悪さを楽しんでいただけたなら幸いです。


 あなたの住む場所の足元も、もしかしたら誰かの記憶が眠る「底」なのかもしれません。


 面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。


 それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。


 作者:silver fox


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