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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第8章:傘を貸せ、鏡の底へ

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第1話:逆さ紡ぐ水鏡

 この物語に興味を持っていただき、ありがとうございます。

 作者のsilver foxです。


 今回は、梅雨明けの団地を舞台にした和風ホラーストーリーです。

 「傘を貸せ」と囁く声、鏡のように死者の顔を映す水溜り、そして土地に刻まれた古い記憶。


 異色の瞳を持つ主人公が、水底から這い寄る怪異の謎に挑みます。

 じっとりと肌に纏わりつくような湿気と、足元から引きずり込まれるような恐怖をお届けできれば幸いです。


 ※本作には読者を不安にさせる描写や、不気味な表現が含まれています。苦手な方はご注意ください。


 それでは、鏡の底からあなたを呼ぶ声に、耳を澄ませてみてください。


 梅雨明けの湿り気が、まるで腐った絹のように肌に絡みつく。廃れた団地群「光ヶ丘ハイツ」は、コンクリートの巨塊が蒸れ上がる悪臭を吐き出していた。ぼく、雨宮澪は、この醜く歪んだ集合体の三号棟、四〇五号室に足を踏み入れた。取材のためだ。左目がじんと疼く。金と青のオッドアイは、時に見たくないものを映し出す。


「やっぱり来たか、ライターさん」


 管理人室のドアが軋み、顔を出した男――小野寺と名札にあった――は、生乾きの雑巾のような眼差しを向けてきた。彼の背後から漂うカビと古い味噌が混ざった匂いが、ぼくの視神経を舐め回す。壁にかかった安物の時計の針は、粘液のように垂れ、歪んだ時間を刻んでいるように見えた。


「……変なもん、見えるか?」


 小野寺の声が低い。ぼくが首を振ると、彼の唇が不自然に歪んだ。


「せ貸くらさ、け傘……いや、なんでもねえ。気をつけな、夜中はな」


 彼の呟きの一部が、鏡に映したように逆さに聞こえた気がした。ぼくの左目が微かに痙攣する。


 夜、執筆の手が止まった。鉛筆の芯が折れる不吉な音と同時に、耳の奥で「ザァ……ザァ……」という水音が湧き上がる。排水溝か? 否、もっと深い場所からだ。ぼくの青い右目には何も映らない。しかし、金色の左目は、部屋の隅々に漂う、見えない湿気の糸を捉えていた。糸は部屋の外へ、暗闇へと続いている。


 エレベーターは故障中と張り紙があった。階段で下りる。階を降りるごとに冷気が増し、コンクリートの壁が滴り始める。地下駐車場への扉前。鉄の扉は錆びつき、押すと鈍い呻きをあげた。


 闇が濃い。懐中電灯の光が、無数の柱の間でよろめく。その時、足元に冷たい感触。水溜りだ。浅いはずなのに、光が届く水面は、底知れぬ深淵のように闇を湛えている。ぼくの金色の左目が、ぎくりと見開いた。水面下に、ぼんやりと浮かぶ顔の輪郭――複数だ。目は見開かれ、口が無言で動いている。


「――ッ!」


 声を上げる間もなく、耳元で闇が胎動した。


「カ……サ……を……」


 かすかな、しかし芯まで凍るような囁き。水溜りの一つから、白く浮腫んだような指先が、ゆっくりと水面を破って伸びてくる。


「カサを……カ……セ……」



 翌朝、ぼくは団地の古参住人を訪ねた。小野寺の不自然な言葉は頭から離れない。向かったのは、二号棟の一階、庭に無造作に洗い米が撒かれている家だ。応対した老婆、杉本タキは、窓のない薄暗い居間で煙草をくゆらせていた。


「光ヶ丘ハイツか……あの土地はな、昔は『鏡沼』いう深い湖の底やったんやで」


 煙の輪が歪みながら天井へ消える。


「開発の時な、底から何体も……わからんもんが出てきたそうな。工事関係者が何人か、行方知れずに……『水に呼ばれた』ってな」


 タキ婆さんの目が、ぼくのオッドアイをじっと見つめる。


「あんた、見えるんやろ? あの世と、こっちの境が薄い目をしとる。気ぃつけなはれ。あの連中はな、仲間を欲しがっとる。沈めた者を、底へ引き摺り込むことでな……」


 まるで船幽霊の伝説そのものだ。柄杓で水を汲み、船を沈め、仲間を増やす。ここでは、湖底の亡者たちが、団地という船に乗り込み、新たな乗員を求めているのか?


「婆さん、どうすれば……」


 タキ婆さんは黙って、縁側に積んだ古い傘を一本、ぼくに差し出した。傘の先は錆びて破れ、明らかに底が抜けている。


 その夜、現象は激化した。部屋の壁を伝う水滴の量が明らかに増え、所々に黒い水シミが、苦悶する人間の横顔のように広がっている。廊下に出れば、前日にはなかった水溜りが、あちこちに鏡のように光る。どれも深く、底が見えない。


 エレベーターシャフトの方から、鈍い金属の軋みと、大量の水が流れ落ちるような轟音が聞こえる。故障中のはずだ。音に引き寄せられるようにシャフト前へ。鉄の扉の隙間から、冷気と生臭い水の匂いが噴き出している。


「カサ……オ……カセ……」


 幾重にも重なった声が、シャフトの深淵から湧き上がる。それはもはや囁きではなく、溺れる者の断末魔を集めた合唱だった。


 ぼくの金色の左目が、灼けるように疼く。シャフトの暗がりに、無数の白い手が蠢いている。手は伸び、扉を内側から掻き毟り、隙間から冷たく濡れた指先がにじみ出てくる。そして、ぼくの足元に広がる水溜り――そこに映るぼく自身の顔が、ゆっくりと、不気味な笑みを浮かべた。


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