第2話:緑の影
数日後、異常は明らかになった。家中の水が、あの生臭い泥の匂いを帯び始めたのだ。蛇口をひねれば、最初の一瞬は透明でも、すぐに微かに黄ばみ、明らかな土臭さが鼻をつく。
コップの水を明かりにかざせば、無数の微細な藻のようなものが漂っている。飲む気など、とても起こらない。ペットボトルの水で凌いでいるが、シャワーや洗い物は避けられない。身体を洗うたびに、あのぬめりが皮膚にまとわりつく感覚に苛まれる。まるで、見えない藻が僕の身体に根を下ろそうとしているようだ。
異変は深夜に頂点を迎えた。激しい雨が屋根を打つ中、突然、固定電話がけたたましく鳴り響いた。深夜一時。心臓が口から飛び出そうになった。受話器を取る手が震える。
「…もしもし?」
受話器の向こうからは、ひたすら水の音だけが聞こえてくる。ザー…ザザ…。雨の音よりも重く、深く、濁っている。川の流れか? それとも…?
「…誰だ?」
問い詰める僕の声に応えるように、水音の向こうから、かすかな、しかし明らかな「声」が混じった。グオ…グルル…。それは排水溝や湯船で聞いたあの音に、間違いなく「言葉」の輪郭を与えられたものだった。意味はわからない。しかし、それは確かに、呼びかけていた。僕を。そして、その「声」には、底知れぬ渇望が込められていた。
「…出てこい…」
そう聞こえた気がした瞬間、受話器の穴から、冷たくて生臭い水滴が、バチッと僕の耳たぶに跳ねた。思わず受話器を放り投げた。ガチャン。受話器は床に落ち、その向こうからは、水音と共に、かすかな、乾いた笑いのような音…「ケケッ」という声が聞こえ、そしてプツリと切れた。
僕はその場にへたり込み、耳たぶを必死に拭った。水滴はすぐに乾いたが、あの冷たさと生臭さは、皮膚の奥に染み込んだようだった。窓の外、雨に叩かれる小川の流れが、今までになく大きく、不気味に響いている。
恐怖は麻痺に変わりつつあった。逃げ場がない。水は、生活の隅々にまで浸透している。コーヒーを淹れようとポットを持てば、その底に、微かに緑がかった影が揺れている気がする。洗面台の鏡をふと見れば、自分の顔の輪郭が、水に溶けたようにぼやけて見える瞬間がある。それは疲れだと自分に言い聞かせるが、その度に、耳元であの「グオルル…」という呼び声が蘇る。
決定的な瞬間は、雨が上がった翌日の夕暮れだった。小川の水かさが増し、鈍い流れの音が家の中まで響いていた。疲れ切ってソファに横になり、うつらうつらしていた。
ふと、足元が妙に冷たいのに気づいた。見下ろすと、リビングの畳の上に、小さな水溜まりができている。天井から漏れたのか? しかし、その水溜まりは、まるで生きているかのように、ゆっくりと、しかし確実に形を変え、大きくなっていた。そして、その中心が、再び深い闇の渦を形成し始めた。
「…な、んだ…」
渦の中から、何かが浮かび上がってきた。まずは一本の、緑がかった灰色の、細長いもの。それはゆっくりと、確実に形を成していく。水かきのある指…そして、枯れ枝のような腕…。
肘までが、粘り気のある水の塊から、ゆっくりと抽出されるように現れた。皮膚は藻と泥で覆われ、ところどころ鱗のようなものが剥がれかかっている。指先は異様に長く、先端は鉤爪のように鋭く尖っている。その手が、ヌルヌルと音を立てながら、水溜まりの縁の畳に触れた。爪が、古い畳表を、じわじわと引き裂いていく。
恐怖が、全身の血液を一瞬で凍らせた。動けない。声も出ない。ただ、眼球だけが、その忌まわしい手の動きに釘付けになっている。その手は、僕の足首を目指して、ゆっくりと、しかし執拗に畳の上を這い始めた。後ずさりしたい。叫びたい。しかし、身体が言うことをきかない。足元に漂う、強烈な川底の腐敗臭。あの「ケケッ」という乾いた笑い声が、頭蓋骨の内側で直接に響いている気がした。
手は、冷たいコンクリートのように重い感触で、僕のスリッパのつま先に触れた。その瞬間、身体の縛りが解けた。
「ぎゃあああっ!!!」
悲鳴と共に、必死に足を引っ込めた。スリッパが脱げた。その隙に、這っていた手は、一瞬止まったように見えた。そして、その指が、脱げたスリッパの上で、不気味に震え、ギュッと掴んだ。次の瞬間、水溜まりの渦が急激に大きくなり、深みを増した。その闇の中へと、スリッパを握りしめたまま、あの手がズルズルと引きずり込まれていく。
水音と共に、微かに「…ケケ…」という声が聞こえた。水溜まりは、急速に小さくなり、やがて畳の上に残ったのは、わずかな水痕と、引き裂かれた畳表の傷跡、そしてスリッパを失った僕の足だけだった。