第2話:終わらないかくれんぼ
押し入れの襖を閉めた途端、足音がした。
バシャ、バシャ。それはただの水溜りを踏む音ではない。粘度の高い、何かを引きずるような、不快な音。廊下をゆっくりと近づいてくる。
膝の上で、魔除けの塩水を入れたコップがカタカタと揺れる。液晶時計の赤いデジタルの光が、暗闇の中で3:14を指している。まだ一時間も経っていない。父は隣の部屋で、死んだように眠っているはずだ。では、あの足音の主は。
襖の隙間から、氷のような冷気が流れ込む。
黒い影が、隙間の下から滲み出すように現れ、墨汁が水を汚すようにゆっくりと壁を這い上がっていく。それは人の形をしているようで、関節があり得ない方向に曲がっていた。僕は固く目を閉じた。でも、まぶたの裏に、ギ、ギギ……とゆっくり開かれる襖の音が、熱した鉄で焼き付けられるように刻み込まれた。
呼吸を殺しても、心臓の音がうるさい。自分の鼓動が、この薄い襖を震わせている。
冷たい指先が、僕の左足首に、そっと触れた。
「……見ぃつけた」
少女の声だった。
でも、その声の奥でガラス片が擦れ合うような不協和音が混じっている。父の声と、少女の声が、歪に重なって聞こえる。
目を開ける勇気はない。塩水を口に含み、コップを握りしめる。
都市伝説の手順を思い出す。遊びの終了を宣言しなければ。この、呪われた遊びを。
その時だった。
押し入れ全体が、内側からではなく、外側から激しく揺れた。
ガシャン!
ガラスの割れる音。そして、本物の父の怒鳴り声が聞こえた。
「ユキ! またお前か! 夜中に何騒いでるんだ!」
襖が蹴破られ、月明かりを背にした父の巨大なシルエットが浮かび上がる。酒の臭いが、押し入れの淀んだ空気に混じり、吐き気を誘う。
でも、僕の足首を握っている冷たい手は、消えていない。
目の前の父と、僕の足首を掴む何か。
鬼は、二人いる。
「な、何してやがる、こんな所で!」
「だ、駄目だよ! 父さん、こっちに来ちゃ駄目だ! ここにいるんだから!」
僕が叫んだ瞬間、本物の父の背後、廊下の深い闇から、無数の赤い糸が蛇のように現れた。
赤い糸は、父の体をまるでマリオネットのように操り、天井裏へと引き上げていく。
悲鳴はなかった。
ただ、熟れた果実が潰れるような、湿った鈍い音だけが響いた。
父の巨体が軽々と持ち上げられ、闇の中へと消える。ぽた、ぽたと、温かい液体が天井の隙間から落ちてきた。それは、ミーコちゃんから噴き出したものと同じ、腐った桃の甘い匂いがした。
僕は恐怖に駆られ、押し入れから這い出した。廊下には、父の片足だけが、忘れ物のように転がっている。
リビングのテレビが再び砂嵐になり、画面の歪みの中から、小さな子供のような手がにじみ出て、こちらに手招きをしていた。
「僕の、勝ちだよ!」
僕はそう叫び、塩水を吹きかけながらミーコちゃんを探す。
でも、家はもう僕の知っている家ではなかった。台所の扉は二つに増え、玄関に続くはずの階段は、メビウスの輪のようにねじれて天井に続いていた。
ふと、自分の左手に違和感を覚えた。見ると、皮膚がほつれ、そこから赤い毛糸が覗いている。僕の指が、僕の肉体が、ゆっくりとぬいぐるみに編み変えられていく。僕という存在の境界が、曖昧に溶けていく。
浴室の鏡に飛び込む。
そこに映っていたのは、恐怖に歪む僕ではなかった。
口角を歪に吊り上げ、笑っている僕がいた。その目は、ガラス玉のように虚ろな黒いボタンに変わっていた。
鏡の中の僕の背後、天井から赤い糸で吊るされたミーコちゃんが、ゆっくりと揺れている。ボタンの目から血の涙を流し、腹の裂け目からは、僕が詰めたはずの生米が、ぽろぽろと零れ落ちていた。
「次は、僕が、鬼だから」
鏡の中の僕が、言った。
その瞬間、窓の外が真っ白に輝き始めた。朝の光ではない。無数の塩の結晶が、雪のように舞い降り、家全体を覆い尽くしていく。呼吸をする度に、キラキラと光る結晶が肺に入り込み、内側から凍りついていくのを感じた。
薄れゆく意識の最後に、僕の視界に映ったのは、病院のベッドの上で、穏やかに微笑む母さんの姿だった。
彼女の手首には、赤い糸の縫い跡。
そしてその中央には、僕の目と同じ、真新しい黒いボタンが、鈍く光っていた。
『ユキ、やっと家族みんな、一緒になれたね』
母さんの声が、頭の中に直接響いた。
ああ、そうか。
あの日、掲示板に『これで願いが叶った』と書き込んだのは。
―――母さん、あなただったんだね。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「第6章:腐った桃のひとりかくれんぼ」、いかがでしたでしょうか。
少年の純粋な願いが、最も歪んだ形で成就してしまう結末に、救いのない恐怖を感じていただけたなら幸いです。家族の絆が呪いへと反転する絶望と、ひとりかくれんぼという遊びの持つ不気味さを描きたいと思い、この物語を執筆しました。
もしかしたら、あなたのすぐそばでも、誰かが終わらない鬼ごっこを始めているかもしれません。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。
それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。
作者:silver fox




