第2話:狂宴
猿面の男を目撃して以来、この寂れた商店街は、静かに、しかし確実に狂い始めた。空き店舗のガラスが理由もなく割られ、夜中になると、金属の棒を引きずるような音が響き渡る。そして、あの匂いだ。生肉の血生臭さと、内臓が腐敗していく甘い匂いが混じり合ったような獣臭が、雨上がりの路地に淀むようになった。
「……ただのたちの悪いイタズラだろう」
商店街の会合で、田所はそう言い張ったが、その顔色は土気色を通り越して、もはや灰色がかっていた。彼の左腕に、真新しい包帯が痛々しく巻かれているのを私は見逃さなかった。どうしたのかと訊ねると、夜警の際に空き店舗で足を滑らせて転んだ、と曖昧にごまかす。だが、その包帯の隙間から覗く皮膚は、まるで獣の斑紋のように、不自然な黒い斑点で覆われていた。
槐堂の客足は、完全に途絶えた。代わりに増えたのは、夜の“訪問者”だ。
毎晩、決まって午前二時頃になると、店のシャッターを外側から何かが撫でる音がする。最初は、ざらり、ざらり、という布ずれのような音。やがて、カリ、カリ、と鈍い爪が立てる音が混じるようになった。ある夜、私は耐えかねて、インターホンの防犯モニターのスイッチを入れた。
ノイズの走る白黒の映像に映し出されたものに、私は息を呑んだ。
猿の面だった。
レンズに顔を押し付けるようにして、こちらを覗き込んでいる。湿って汚れた毛が、レンズにへばりついている。鼻孔がひくひくと動き、吐き出された生温かい息で、モニター画面が白く曇った。その口元が、ゆっくりと、人間ではありえないほど大きく裂けていく。並んでいるのは、黄色く変色した人間の歯と、その隙間から突き出した、肉食獣の鋭い犬歯だった。
私は店の奥にある物置から、父の遺品を取り出した。古い上下二連の猟銃だ。所持許可は更新してあるが、弾は一発も込めていない。ただ、そのずしりとした鉄の重みだけが、かろうじて私の精神の拠り所になっていた。
「狂猿夜話」の解読を急ぐ。崩れた文字を追うたびに、断片的な記述が、現実の恐怖を冷酷に裏付けていく。
〈狂猿に魅入られし者は、その魂を喰われ、次第に獣の貌を得る〉
〈其の狂気は蝕みて広がる、疫病の如くに〉
ふと、田所の腕に浮かんでいた、あの黒い斑点を思い出す。あれは、病の兆候などではない。変容の、始まりだったのだ。
事件は、あまりにも唐突に起きた。田所会長の死だ。
彼は、あの細工町の乾物屋だった空き店舗で見つかった。遺体は、惨憺たる有様だったという。腹を鋭利な何かで抉られ、抜き取られた内臓が、床にあの幾何学模様を描いて並べられていた。そして、顔の皮膚が、一枚残らず綺麗に剥がされていた。まるで──熟練の猟師が、獲物である猿の皮を剥ぐように。
葬儀の夜、私は店に籠城した。猟銃を膝に置き、酒も飲まず、ただ壁の深い影を見つめていた。窓の外が、にわかに騒がしくなる。複数の足音だ。ぬかるりを踏みしめるような、ねちゃりとした音。そして、しゃがれた、獣じみた笑い声が交じっている。
ドン、ドン、とガラス戸が叩かれる。震える手で、再びモニターを点けた。
そこに映し出された光景に、私の心臓は動きを止めた。
三人の人影。先頭に立つ男は、田所の葬儀で顔を見た、商店街の組合員の一人だ。しかし、彼の首の上には──まだ生々しい血の滲んだ、田所の顔の皮が、無理矢理被せられていた。縫合した跡が、ずたずたのミミズ腫れになっている。その背後に立つ二つの影は、完全にあの猿面を被っている。だぶついた外套の裾から覗く足は、もはや人間のそれではない。黒い毛に覆われ、蹄のように硬く変形していた。
「店主さーん」
皮の男の声が、スピーカー越しに歪んで聞こえる。
「仲間に入りなよ。いい面が、いっぱいあるからさ」
ガコン、と重い音がして、店のシャッターが軋み、上から巨大な力で押さえつけられる。鍵が、悲鳴のような音を立てて歪み始めた。
私は二階へ駆け上がり、寝室の窓から裏路地へと飛び降りた。雨の匂いに、濃厚な獣臭が混じり合う。夢中で路地を疾走する。背後から、複数の足音が追ってくる。甲高い、鳥の鳴き声のような金切り声が、耳を劈いた。
「逃げんじゃねえよ! 新しい皮が、お前を待ってんだからよぉ!」
商店街の突き当たり、取り壊しが決まった旧公会堂の前に追い詰められた。三つの異形の影が、ゆっくりと距離を詰めてくる。田所の皮を被った男が、不自然なほど長い腕を、私に向かって伸ばす。その手のひらには、黒く縮れた獣の毛が密生していた。
猟銃を構える。だが、引き金に指はかからない。それはもはや武器ではなく、ただの重い鉄の棒きれに過ぎなかった。男の濁った黄色い目が、闇の中で不気味な蛍光を放つ。
「さあ、お前の番だ」
その瞬間、頭上から、ずしりとした異様な重みが落下してきた。何かが、私の肩から頭部へと覆い被さる。生温かい。ごわごわとした毛皮の感触だ。鼻腔を焼くほどの、強烈な獣臭。
それは──まだ柔らかく、おびただしい血の匂いを放つ、猿の生皮だった。
「ようこそ」
猿面の男たちが、声を揃えて言った。
「狂猿の、眷属へ」
皮が、私の顔を締め付ける。第二の皮膚のように、肌へと吸い付いていく。思考が熱い液体のように溶解し、視界がどろりとした黄色に濁っていく。街灯の光が、追い手たちの歪んだ影を、公会堂の壁に長く長く延ばしていた。
その影たちが、歓喜するように踊っている。私の肩にかかる皮もまた、まるで生きているかのように、影の中で蠢き始めていた。
遠くで、自分の喉から漏れる声を聞いた。
それは、ケタケタと甲高い、人間の声ではなかった。獣の歓喜の咆哮だった。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
「第5章:狂猿夜話」、いかがでしたでしょうか。
主人公が狂猿の眷属へと堕ちていく結末に、恐怖や絶望を感じていただけたなら作者として嬉しい限りです。逃げ場のない閉鎖的な空間で、じわじわと狂気が伝染していく恐怖を描きたいと思い、この物語を執筆しました。
あなたのすぐ隣にも、すでに「皮」を被った誰かがいるのかもしれません……。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想などをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。
それでは、また次の物語でお会いできることを願っております。
作者:silver fox




