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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第3章:件(くだん)は配信を嗤う

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第4話:歪みしるしの行方

 意識が闇の底深く沈みかけていた時、頭上から、異質な光が差し込んだ。


 最初は幻覚かと思った。しかし、光は次第に強くなり、崩れ落ちたコンクリートの隙間を照らし出した。そして、人の声が、遠くから、しかし確かに聞こえてきた。


「―――す! 聞こえますか!?」

「生きてるかー!?」


 救出隊の声だ。涙が、冷たくなった頬を伝うのを感じた。声が出ない。喉が渇き、震えで歯がガチガチ鳴っている。必死に、手にした鉄の棒を、崩れた瓦礫に打ちつける。コンコン、コンコン。微かな音が、泥水に吸い込まれそうになる。


「音がした! 下からだ!」


 声が近づく。光が揺れる。重機の唸るような音。コンクリートが削られる音。時間の感覚は依然として狂っているが、やがて、頭上に人の姿が見えた。ヘルメットのライトが、私の目をくらませる。


「いた! 女性一人! 意識は…!?」


「…助け…て…」


 かすれた声が、ようやく絞り出された。担架が降ろされ、泥まみれの体を引き上げる作業が始まる。痛みが全身を走るが、それは生きている証だった。外気――冷たく、埃っぽいが、清浄に感じられる空気が肺に入る。


 担架が地上へと引き上げられる間、私は必死に、あの場所を見たかった。件がいた場所。崩落したコンクリートの下敷きになっているだろうか? しかし、視界は救出隊員の背中と、崩れかけた建物の天井、そして夕暮れの空の一部しか捉えられなかった。


「大丈夫ですか? 名前は? 水野玲子さんですよね?」


 救急隊員が私の顔を覗き込む。その目には、無事を喜ぶ安堵と、私の悲惨な姿への同情が混ざっている。


「…あれ…は…?」


「え?」


「牛に…顔が…」


 隊員の表情が一瞬、曇った。困惑と、わずかな畏怖が走ったように見えた。彼は同僚と目を合わせ、そっと首を振った。


「…何も見つかっていませんよ。崩落がひどくて…。とにかく、今は体のことを心配してください」


 何も…見つかっていない? あの生々しい異形の痕跡すら?


 担架が救急車へと運ばれる。サイレンの音が遠くで鳴っている。病院へ向かう車中、隊員がそっと私に言った。


「…あなたの配信、見た人もいたみたいです。あれから、ネットでかなり話題になってるようで…」


 その言葉に、冷たい塊が胃の底に沈んだ。



 一ヶ月後。私は自宅のベランダに立っていた。右肩はギプスが外れ、左足首も松葉杖なしで、わずかに引きずりながら歩けるようになっていた。肉体的な傷は癒えつつある。しかし、心の奥底にできた亀裂は、深く、暗く、塞がる気配がない。


 テレビは、あの地震の被害状況を淡々と伝えていた。幸い、私以外の負傷者は出なかった。建物の倒壊も限定的だった。専門家たちは、地盤の弱さや老朽化を原因と分析していた。合理主義的な説明。私が以前なら、当然受け入れていたものだ。


 しかし、画面の隅に、ふと映り込んだものがある。ネットニュースの見出しの一部だった。


『“件の予言”的中か? 廃墟配信者救出も謎多き事件』


 そして、その記事に添えられているのは、私の配信が最後に捉えた、鮮明な一枚のスクリーンショットだった。


 コンクリートの破片が崩れ落ちる背景。ノイズが走る画面の中央。焦点は少しぼやけているが、それでも異様な存在感を放っている。半身白骨化した牛の胴体。その上に接合された、皺だらけの生々しい人間の老人の上半身。そして、その顔――割れた黒い唇を、両端が無理やり吊り上げられるようにして浮かべた、底知れぬ悪意と嘲笑に満ちた、歪んだ笑み。


 その画像は、明らかに加工などされていない、生々しい現実の断片だった。そして、今や無数のウェブサイト、SNS、掲示板を駆け巡り、一つの現代の怪談として、あるいは不気味なミームとして、拡散し続けている。


 記事のコメント欄を開く指が震えた。


『この笑顔見るとゾクゾクする』

『地震前だよこれ? マジで予言?』

『次は何が起こるんだろう…』

『水野さん、あの後何か変わったことない?』

『件の笑み拡散プロジェクト始動w』


「…次の…災い…」


 件の囁きが、またしても蘇る。それは、私個人に向けられたものではなかったのかもしれない。あの映像が拡散した時点で、予言は、より大きなものへと変容したのではないか?


 私は、件の出現を、単なる凶事の前触れとして捉えていた。しかし、それは違う。件そのものが、デジタルの時代においては、拡散する映像そのものが、「凶事」の本体なのではないか? 見る者に不安を植え付け、噂を呼び、集合的なパニックや不吉な予感を醸成する。かつては村を、今や世界を、目に見えない恐怖で覆う「歪みしるし」として。


 祖母は言った。件の目を見る者は、件が告げる凶事の真っ只中に放り込まれる、と。


 私は、件の目を直視した。否、世界中の無数の人々が、その歪んだ笑みを直視したのだ。


 テレビのニュースが切り替わった。どこか遠い国で、原因不明の集団ヒステリーが発生したという速報。別のチャンネルでは、新たな地殻変動の兆候を懸念する科学者のコメント。


 それらは、全く関連のない、個別の事件や懸念に過ぎない。合理的に考えれば。


 しかし、ベランダの柵に手をかけ、街の明かりを見下ろしながら、私は確信していた。あの笑みは、単なる映像ではない。拡散し続ける、生きた「歪み」なのだ。そして、次に何が起ころうと、それを見た者たちの心に巣食った不安と不吉な予感は、新たな「凶事」の、肥沃な土壌となるだろう。


 件は死んだのではない。私の見たあの白骨は、単なる入れ物か、あるいは最初の一歩に過ぎなかった。真の本体は、目に見えないデータの流れの中、無数のスクリーンの裏側で、歪んだ笑みを浮かべて蠢いている。


 私は、その最初の犠牲者か? それとも、恐ろしい伝染病の、最初の保菌者か?


 風が、まだ痛む肩を冷たく撫でる。その感触が、泥水の中で蠢いていた、あの冷たくぬるりとした「何か」を、鮮明に思い出させた。



 第3章『くだんは配信を嗤う』、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。配信は、無事に(?)終了いたしました。


 古典的な妖怪「件」が、もし現代のネット社会に現れたらどうなるか? という着想から生まれた物語でした。かつては村から村へと囁き継がれた「凶事のしるし」が、今や瞬時に世界中へ拡散する。その恐怖の変質と、止めようのない伝播を描いてみましたが、いかがでしたでしょうか。


 主人公が最後にたどり着いた、「拡散する映像そのものが凶事の本体ではないか」という気づき。あの歪んだ笑みは、今もあなたの見ている画面の向こう、データの海の中で蠢いているのかもしれません。


 この物語を読んで、ネットに転がる真偽不明の不気味な画像や動画を見る目が、少しだけ変わってしまったなら幸いです。その「いいね」や「シェア」が、新たな「歪み」を広げているのかもしれませんから……。


 もし少しでも「面白かった」「背筋が凍った」と感じていただけましたら、ぜひページ下の【☆☆☆☆☆】から評価やブックマーク、そして一言でも感想をいただけますと、次の物語を生み出すための最高のモチベーションになります。


 それでは、また別の禁忌の物語でお会いしましょう。

 最後まで読了ありがとうございました。


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