第3話:坊やを待つ老婆と殺された犬
声のした方向は、集落の西側だった。小さな畑が広がるエリアで、数件の家が点在している。
到着したときには、すでに数人の住民が集まっていた。みな高齢者で、薄暗がりの中、無言で一点を見つめている。
その視線の先に、一人の老婆が地面に跪いていた。彼女は何かを抱きしめながら、小刻みに体を震わせている。
近づいて、俺は息を呑んだ。
老婆が抱いているのは、小さな犬の死体だった。首が不自然にねじれ、舌がだらりと出ている。明らかに絞め殺された跡だ。
「また……またか……」
住民の一人が呟いた。声には疲労と、諦めに似た感情が込められていた。
老婆は泣き声を上げず、ただ無言で犬を抱きしめ続けている。その姿は、すでに泣く感情さえ枯れ果てているように見えた。
「おばあさん、大丈夫ですか?」と俺が声をかけると、老婆はゆっくりと顔を上げた。
目の焦点が合っていない。彼女は俺たちを見ているが、本当に見えているのかわからない。
「……坊やが、帰ってきたのよ」
かすれた声が、夕闇の中に消えていく。
「ずっと待ってたの。でも……でも……」
彼女の視線が、懐中の犬の死体に落ちる。
「……違う。これは坊やじゃない。何か別のものが……私の坊やを、違うものに変えちゃった……」
住民たちが動き出した。老婆の腕から犬の死体を優しく引き離し、誰かが老婆の肩を抱いて家の中へ導き始める。すべてが無言のうちに行われる。この光景が、何度も繰り返されてきた儀式のように滑らかだった。
一人の男性が俺たちの方に近づいてきた。先ほど集会所で会った老人だ。
「見せてすまなかったな」
彼は深く息を吐いた。
「松田のばあさんは……三十年ずっと、あの夜に取り残されたんだ。息子さんを亡くしてから、ずっと……」
「その息子さんは、事件の犠牲者ですか?」と俺が尋ねると、老人は硬くうなずいた。
「ああ。まだ十歳だった。黒澤家の次男と仲が良くて……あの夜、一緒に遊びに行ったまま、帰らなかった」
彼の目が遠くを見つめる。
「発見された時、二人は……いや、もういい。昔の話だ」
しかし、老人は続けた。
「お前さんたち、明日には出ていくんだろう?なら忠告しておく。夜は絶対に外出するな。どんな音が聞こえても、どんな光が見えても、決して外を覗くな」
「なぜですか?」と火野が聞く。彼女の声には、いつもの無愛想さの奥に真剣な響きがあった。
老人は彼女をじっと見て、ゆっくりと言った。
「この集落には、まだあの夜が終わってない者がいる。時間が止まったままの者がな。そんな者たちが、夜になると彷徨うんだ」
「亡くなった方の霊が……?」
老人は首を振った。
「霊かどうかは知らん。だが、確かにいる。動いている。時々、誰かの家の戸をノックする。声をかける。中にいる者は、息を殺してやり過ごすしかない」
彼の話は迷信に聞こえた。だが、その表情には確かな恐怖が刻まれている。これは作り話ではない。彼自身が何度も経験した現実なのだ。
「では、あの犬は……」
「松田のばあさんが飼っていた。十年以上も一緒だった。それが今朝、縁側でこんな姿で見つかった」
老人の目が暗くなる。
「誰がやったのか、誰にもわからん。ばあさんは家に一人きりだ。周りの家もみな高齢者ばかり。夜中に何かが忍び込み、そして……」
言葉が途切れた。
「お前さんたちも気をつけろ。よそ者は、特に狙われやすい」
そう言い残すと、老人は他の住民たちの後を追った。薄暗い路地に、彼らのシルエットが吸い込まれていく。
火野が俺の袖を引いた。
「帰ろう。もう暗くなった」
彼女の顔が青白く見える。ヘッドホンの隙間から、微かに音楽が漏れているが、そのリズムがいつもより速い。緊張しているのだ。
黒澤家の調査は明日に延期し、旧公民館へ戻る道を急いだ。
道中、首の痣が疼き続けている。熱は引くどころか、次第に強くなっているように感じる。
「おい、火野」
「なに?」
「さっきの老人の話……本当に霊の話だと思うか?」
彼女は少し間を置いて答えた。
「わからない。でも、何かが確かに動いている。土地の“声”が、最近どんどん騒がしくなっている。三十年前の事件当時と同じ周波数で……」
「それって、事件が再発するってことか?」
「そうかもしれない」火野の声が低くなる。「あるいは、一度終わらなかったものが、また動き始めたかだ」
公民館が見えてきた。しかし、入り口に何かが置かれているのに気づいた。
近づくと、それは小さな人形だった。藁でできた粗末なものだが、首に赤い紐が巻かれている。
そしてその横に、石が一つ置かれていた。石の下には、紙切れが押さえられていた。
拾い上げて懐中電灯で照らす。そこには、くしゃくしゃな字で一言書かれていた。
「出て行け」




