第1話:時を止めた集落:朽原地区の沈黙
学費と母の医療費のため、危険な「呪物回収」を請け負う調査員・真壁透。彼の首の赤い痣は、30年前の集団狂気と時間の歪みが蔓延する朽原地区で、核心の呪い「逆回りする時計」を感知する。これは狂気の収集家が仕組んだ、真壁の変容をコレクションするための「生きた芸術」でした。彼は自らの感染と自己犠牲を賭け、過去の罪を清算し、時間と運命に抗います。
俺が朽原地区に着いたのは、午後三時を過ぎていた。
山道をくねくねと登り、ようやく見えてきた集落は、まるで時代から置き去りにされたような佇まいだった。屋根のトタンが錆び、何軒かは完全に廃屋となっている。ところどころに人影らしきものが見えるが、動きがのろく、まるで底なしの沼の中で動く影のようだった。
「……ここ、本当に現代日本ですか?」
呟くと、イヤホンから九条の声が滑らかに流れてきた。
『当然ですよ、真壁さん。ただし、時間の流れ方が少々特殊な地域ではありますがね』
彼の声には、いつものように薄ら笑いが滲んでいた。画面にはGPSの位置情報が表示されていたが、地図上ではこの一帯が微妙にぼやけて見える。電波も二本あれば御の字だ。
助手席で火野がヘッドホンを深く被り直した。今日は黒いドレッドヘッドのヘッドホンだ。彼女は窓の外を一瞥し、すぐに目をそらした。
「悪い予感しかしない。早く用を済ませて出たい」
「同意見だ」
車を集落の入り口と思しき場所に停めた。ここより先は道幅が細すぎる。降りると、湿った冷気が肌にまとわりついた。標高が高いせいか、六月だというのに肌寒い。
首の後ろがチリチリと熱を持った。
慣れた感覚だ。あの赤い縄目の痣が、この土地の“何か”を感知している。樹海で刻まれたこの傷は、厄介なセンサーとして機能するようになった。金のために受けた代償は、想像以上に大きかった。
『まずは地区の集会所へ向かってください。そこの区長さんに、調査員としての身分を見せれば、一応の協力は得られるはずです』
「一応、ってところが不安だな」
『この地域の人々は、よそ者に対して非常に閉鎖的です。三十年前の事件以来、外部の人間を信用していません。ただし……』
九条が間を置く。その間、イヤホンからは微かな雑音だけが聞こえる。
『……彼ら自身も、互いを完全には信用していないようですよ。面白いでしょう?』
全く面白くない。だが、口に出さなかった。九壁透は報酬の額を頭に浮かべ、ため息をつく。学費と生活費と、母の医療費。金がすべてを割り切らせる。
火野が車から降りてきた。黒いレインコートのようなロングコートをひらりと翻し、首に巻いたマフラーの隙間から白い息が漏れる。彼女は小さな瓶を取り出し、中から青い粒を二つ口に放り込んだ。精神安定剤だ。ラムネのように見えて、中身は確実に薬品だ。
「準備はいい?」と俺が聞くと、彼女はうなずきながら、もう一度ヘッドホンの音量を確認するジェスチャーをした。
「なるべく触らせないで。この土地の声は……うるさそう」
二人で細い路地を歩き始める。
家々の間に洗濯物が干されているが、色褪せており、何日も取り込まれていないように見える。カーテンの隙間から、ちらちらと視線を感じる。見上げると、人影がさっと引っ込む。
完全に監視されている。
集会所は、集落の中心にある古びた平屋だった。看板の文字はかすれて読みづらい。ドアをノックすると、中からゆっくりとした足音が近づいてきた。
開いたのは、背の低い老人だった。年齢は七十歳前後か。分厚いメガネの奥の目が、俺たちを細めてじっと見つめる。
「……何用だ?」
声はかすれており、だが確実に警戒を含んでいた。
俺は九条から渡されていた名札を見せる。「環境調査員です。この辺りの地盤と水質の定期調査に参りました」
老人は名札を疑わしそうに見つめ、次に火野を見る。彼女は無愛想にうつむいたまま、ヘッドホンから漏れる微かなメタルのリズムだけが応答のように響く。
「……前もって連絡は来ていない」
「本部の手違いかもしれません。一晩だけ泊めていただければ、明日には作業を終えます」
嘘は上手くない。だが、九条の用意した書類は本物らしく、老人はしばし考え込んだ後、うなずいた。
「わかった。だが、夜は出歩くな。この辺りは熊が出る」
熊ではないだろう、と俺は思った。首の痣が、今も低い熱を保っている。




