第3話:閉ざされた闇の記憶
完全な闇。水と土の腐敗臭が濃縮されたような空気。冷たさは皮膚を貫き、震えが止まらない。全身の痛み。特に左足首は、触れると鋭い痛みが走り、おそらく捻挫か、あるいは軽い骨折だ。右肩も動かしにくい。泥水は腰の高さで静止しているが、動くたびに嫌な粘り気を感じる。落下の衝撃で、ライトもスマホも、全てを失った。
「…ひっ…ひっ…」
自分の息遣いだけが、この圧倒的な静寂と闇の中で、異様に大きく響く。鼓動が耳朶を打つ。地鳴りは遠のき、時折、遠くでコンクリートが軋む音や、砂がさらさらと落ちる音がするだけだ。まだ余震は続いているのか、それともこの廃墟自体が、重みに耐えかねて呻いているのか。
「落ち着け…落ち着け、玲子…」
民俗学者としての理性が、恐怖の波に抗おうとする。状況分析。閉じ込められた。地下の水溜まりか、あるいは旧施設の排水路のようなものに落ちた可能性が高い。頭上は崩落したコンクリートで塞がれている。空気穴は…あの件の笑みが覗いていた、破れた隙間だけか? 出口を探さなければ。でも、動けば動くほど、この泥は足を捕らえ、体力を奪う。
ふと、幼い日の記憶が、闇に溶け出す墨のように鮮明に蘇る。祖母の囲炉裏端。火の粉がはぜる音。祖母の低い、どこか畏怖に満ちた声。
「…件はな、必ず凶事を告げるんじゃ。天が怒り、地が裂け、疫い神が跋扈する…その前に現れる、歪みしるしじゃよ、レイコ…」
祖母の皺だらけの手が、私の小さな手を強く握った。その力は、警告以上の、絶対的な恐怖を伝えていた。
「決して、探しちゃいけん。見ちゃいけん。件の目を見る者は、件が告げる凶事の、真っ只中に放り込まれるんじゃ…」
「バカ…ばかな…」
今、この地底の泥濘の中で、その言葉が、単なる古老の迷信を超えた、不気味な現実味を帯びて迫ってくる。あの笑み。あの地震。この閉塞。全てが、あまりにも符合しすぎている。
コメント欄の叫び声が、脳裏をよぎる。『声聞こえた!』『地震!』『落ちるって言った!』。あの配信は…世界中に流れた。件の姿と、その予言が。そして、それが現実になったのだ。デジタルの海を渡った映像と音声は、もはや回収不能な「何か」になってしまったのではないか?
「助けは…来る…?」
呟くと、声が闇に吸い込まれていく。誰かが配信を見ていれば…警察や消防に通報してくれていれば…。だが、あの場所の特定性。山奥の廃墟。崩落の激しさ。そして今、頭上から聞こえるのは、風の音だけだ。助けが来るまで、どれだけ持つのか。水。痛み。冷気。そして――恐怖。
ふと、冷たい何かが、水中で私の足首を撫でたような気がした。
「っ!」
飛び上がろうとして、激痛が走り、泥水にもがく。気のせいだ。ただの流れか、あるいは自分の動きで泥が動いただけだ。しかし、その触感は、腐敗した獣毛の束が、ぬるりと撫でていったような…。
件の白骨化した下半身を思い出す。あの空洞。何かが、まだ蠢いているのではないか?
理性が嘲笑う。しかし、闇は理性を浸食する。この濃密な暗黒は、想像力に牙と爪を与える。
時間感覚が失われていく。一分が一時間のように長く、あるいはその逆のように感じられる。闇の中で、五感が異常に研ぎ澄まされる一方で、同時に歪められていく。水の滴る音が、遠くで誰かが啜り泣く声に聞こえたり。コンクリートの軋みが、巨大な何かが動く足音に聞こえたり。
そして、常に感じるのは、水中の「気配」だ。
気のせいだと分かっていても、泥水の中に、冷たく滑らかな何かが、時折、脚に触れる。それは決して明確な形ではなく、腐った水草か、あるいは流れてきた瓦礫の破片かもしれない。だが、触れるたびに、あの件の白骨の空洞を思い出さずにはいられない。あの中には、何かがまだ…息づいているのか? あるいは、件の本体は、あの生きた顔だけではなかったのか?
意識が朦朧としてくると、奇妙な幻聴が聞こえ始める。スマホの通知音だ。あの高くて軽快な、SNSの着信音が、闇の中を不気味に反響する。それは現実にはありえない。スマホは粉々だ。しかし、その音は、私の耳の奥、脳の深くで鳴り響く。
そして、その音と共に、断片的なコメントの文字が、瞼の裏に浮かび上がる。
『件の笑顔拡散中w』
『あの動画マジでやばい 再生数爆上げ』
『地震と完全に一致 予言か?』
『次の災害は?』
『水野玲子さん生存してる?』
まるで、デジタルの亡霊たちが、私の意識に直接囁きかけているようだ。あの配信は確かに世界に拡散した。件の歪んだ笑みと、その予言が、無数の目に晒された。それは、単なる映像記録を超えた、ある種の「呪い」として、ネットという現代の口承の海を泳ぎ回っているのではないか? かつては村の古老がひそひそと語り継いだ禁忌が、今や、ハッシュタグと共に世界中に瞬時に拡散する。その速度と範囲が、件の本質に何か作用したとしたら?
「…次の…災い…?」
件の囁きが、幻聴のように蘇る。「来る…揺れ…」。それは、私個人への予言だったのか? それとも、もっと大きな何かへの序幕だったのか? 私がここで死ねば、件の予言は完結するのか? それとも、私の死は、次の災いへの導火線に過ぎないのか?
泥水の中の「気配」が、再び脚に絡みつく。今回は、よりはっきりと。冷たく、ぬるりと。まるで、長く腐敗した指が、そっと撫でるように。
「あっ…! 離して…!」
必死で足を払いのける。水しぶきが上がる。激痛が走る足首をかばいながら、もがく。その動きで、泥の中に埋もれていた何か堅いものに手が触れた。長い、金属製の棒のようだ。おそらく、かつての檻の鉄柵の一部だろう。思わずそれを握りしめる。冷たい感触が、わずかながらも現実へと引き戻してくれた。
頭上で、コンクリートが大きく軋んだ。砂利がざらざらと降り注ぐ。隙間から差し込む光は、さらに弱まっている。夕暮れか。それとも、また崩落が迫っているのか。
握りしめた鉄の棒。これが、私に残された唯一の武器か、支えか。
拡散する件の笑み。蠢く水底の気配。そして、予言された「次の災い」。
私は、単なる犠牲者なのか? それとも、何かを呼び寄せてしまった、媒介者なのか?




