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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第20章:その殺人鬼を、死刑にしてはいけなかった。封印された呪いが解き放たれ、都市が白い手形に埋め尽くされるまで

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第10話:独房の狂気――自らを縫う「血管の刺繍」

 東京拘置所、独房。

 そこは、僕がこれまでに設計したいかなる空間よりも、シンプルで、無機質で、ある意味では「完成された」箱だった。


 コンクリートの壁。鉄格子。洗面台。

 世界から切り離されたこの静寂は、創作活動に集中するにはうってつけだ。


 だが、道具がない。

 カンバスも、絵筆も、愛するガスもない。

 あるのは、支給された安っぽい灰色の囚人服と、僕自身の肉体だけ。


「……退屈だ」


 僕はコンクリートの床に寝転がり、天井のシミを見つめた。

 あの日、地下祭壇で警察に踏み込まれた時の記憶は曖昧だ。

 夏希さんが泣き叫び、刑事たちが銃を構え、そして僕の意識はプツリと途切れた。


 気がつけば、僕は「大量殺人鬼」として、この檻の中にいた。

 世間では「平成の切り裂きジャック」だの「アート・キラー」だのと騒いでいるらしい。

 愚かな大衆だ。僕の崇高な目的など、誰にも理解できない。


『……レン……描け……』

『……まだ……足りない……』


 脳内で声がする。

 神代先生だ。いや、彼を含む数千の「白い手」たちの合唱だ。

 彼らは飢えている。

 もっと美しいものを。もっと鮮烈な赤と白のコントラストを。


「わかっているよ。でも、素材がないんだ」


 僕は自分の腕を見た。

 手錠の跡が赤く残る、痩せた手首。

 青白い皮膚の下で、静脈がトクトクと脈打っている。


 ……ああ、そうか。

 灯台下暗しとはこのことだ。

 最高の素材は、一番近くにあったじゃないか。


 僕は囚人服の裾を強く引っ張り、ほつれた糸を一本引き抜いた。

 丈夫な木綿糸だ。

 次に、シャツのボタンを噛み砕く。

 プラスチックの破片が口の中に広がる。舌を切らないように、鋭利に尖った欠片を選び出す。


 即席の針と糸。


「ふふ、これでいい」


 僕は左腕をまくり上げた。

 浮き出た静脈。それは生命の樹形図だ。

 この青いラインを、もっと際立たせたい。

 皮膚というカンバスに、刺繍を施すように。


 ブスリ。


 尖ったプラスチック片を、手首の皮膚に突き立てる。

 鋭い痛みが走る。

 だが、それ以上に脳髄を駆け巡る快楽物質が、痛みを甘美な痺れへと変換する。


「あはっ……いい色だ」


 滲み出る鮮血。

 僕は糸を通した欠片で、血管を「縫い」始めた。

 静脈の下に糸を通し、皮膚の上に引き上げる。

 血管を浮き上がらせ、固定し、装飾する。

 まるで、フランス刺繍のステッチのように丁寧に。


 チク、チク、チク……。


 独房の静寂に、肉を穿つ微かな音が響く。

 痛い。痛いけれど、美しい。

 僕の左腕は、見る見るうちにグロテスクで、しかし精緻なレース模様のような傷に覆われていく。


「見てくれ、神代先生。これが僕だ」


 一時間後。

 左腕全体が、血と糸と膨れ上がった血管で構成された、一つのオブジェに変貌していた。

 出血で意識が朦朧とする。

 視界が白く霞む。


 その時、巡回の看守が鉄格子の前に立った。


「おい、84番。食事の時間だぞ……ひっ!?」


 看守が悲鳴を上げ、持っていたトレーを取り落とした。

 床に散らばる味噌汁とプラスチックの食器。


 僕は鉄格子に縋り付き、血まみれの左腕を突き出した。

 満面の笑みで、彼に問いかける。


「どうですか?最高傑作でしょう?僕自身が、作品になったんです」


 看守は腰を抜かし、無線機に向かって絶叫した。

「医務官!医務官を呼べ!84番が、自分の腕を……!」


 サイレンが鳴り響く。

 騒がしくなる廊下。

 僕は薄れゆく意識の中で、恍惚と笑い続けた。

 ああ、なんて素晴らしいフィナーレだ。



 ***



(視点:三島雪乃)


 取調室の空気は、凍てつくように冷たかった。

 マジックミラー越しに見る黒崎蓮は、両腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、拘束衣を着せられていた。

 鎮静剤を打たれているはずなのに、その瞳は爛々と輝き、虚空を見つめている。


「……完全に、狂ってるわね」


 隣に立つ同僚が、嫌悪感を隠さずに言った。

 私は答えず、ポケットの中の水晶を握りしめた。

 亡き妹の形見。

 妹は言っていた。『水晶はね、見えないものを映すレンズなの』と。


 藤堂刑事は、あの廃ホテルで行方不明になった。

 遺体すら見つかっていない。

 現場の地下シュートからは、数えきれないほどの人骨と、ガラス細工のように加工された数名の女性の遺体が発見された。

 夏希というライターは奇跡的に保護されたが、精神崩壊を起こし、今は閉鎖病棟で「白い手が来る」と怯え続けている。


 この事件を、ただの猟奇殺人として終わらせてはいけない。

 藤堂の仇を討ち、真実を暴くには、オカルトだろうが何だろうが利用する。


「少し、二人きりにして」

「え?でも係長、奴は危険です」

「拘束されてるわ。それに、聞きたいことがあるの」


 私は同僚を追い出し、取調室に入った。

 鉄の扉が閉まる重い音。

 黒崎蓮が、ゆっくりと首を巡らせて私を見た。


「やあ、刑事さん。僕の作品を見てくれましたか?」


 彼の声は穏やかだった。

 まるで、個展の感想を聞く画家のようだ。


 私は椅子に座り、机の上に水晶を置いた。

 透明な石が、部屋の蛍光灯を反射する。


「黒崎蓮。……いいえ、そこにいるのは誰?」


 私は水晶を通して、彼の姿を覗き込んだ。

 妹の教え通り、視点をずらす。

 肉体を見るのではなく、その輪郭にまとわりつく「気配」を見るように。


 すると、視界が歪んだ。

 水晶の中に映ったのは、黒崎蓮の顔ではなかった。

 彼の肩、頭、胸に、無数の「白い手」が食い込んでいる。

 いや、違う。

 彼の中から「生えている」のだ。

 そして、彼自身の顔の上に、もう一つ、古風な丸眼鏡をかけた冷徹な男の顔が重なってみえた。


『……ほう。見えるのか、女』


 黒崎の唇が動いたが、聞こえた声は彼のものではなかった。

 低く、ノイズ混じりの、複数の人間が同時に喋っているような声。


「あなたが、神代巖ね」


 私は震える声を押し殺して言った。

 夏希が持っていた日記から判明した、70年前の元凶。


 黒崎(神代)は、ニヤリと笑った。


『そうだ。そして我々は多数だ』


「蓮を操って、何をしたかったの?」


『操った?誤解だな。彼は最高の器だったよ』


 彼は身を乗り出した。拘束衣のベルトが軋む。


『彼は幼い頃、母親の自殺を目撃した。あの時、我々はすでに彼に種を植え付けていたのだ。死を恐怖ではなく、美として刷り込んだ。彼はね、我々の操り人形ではない。我々が丹精込めて育て上げた、最高傑作の「苗床」なのだよ』


「……あの子の人生を、最初から弄んでいたって言うの?」


 怒りで目の前が赤くなる。

 妹の死も、藤堂の失踪も、全てこいつらの戯れだったのか。


『弄ぶとは失礼な。これは進化だ。肉体を捨て、純粋な精神体として永遠に美を保存する。私は彼に、そのための手助けをしてやったに過ぎない』


「ふざけるな!」


 私は机を叩いて立ち上がった。

 水晶がカタカタと震える。


「死刑判決が出たわ。あなたはもうすぐ死ぬ。肉体が滅びれば、あなたたち怨霊も消滅するはずよ」


 黒崎(神代)は、ケタケタと笑った。


『死?それこそが我々の望みだ。肉という檻が壊れれば、我々は完全に自由になる。……楽しみにしておけ、刑事。この国の地下水脈には、すでに我々の根が張り巡らされている』


 彼は大きく口を開け、天井を仰いだ。

 その口の奥から、白い霧のようなものが漏れ出しているのが見えた。


『展覧会は、まだ始まったばかりだ』


 私は恐怖に立ち尽くした。

 こいつを殺しても、終わらない。

 むしろ、処刑こそが、彼らの計画の最終段階なのではないか?


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