第10話:独房の狂気――自らを縫う「血管の刺繍」
東京拘置所、独房。
そこは、僕がこれまでに設計したいかなる空間よりも、シンプルで、無機質で、ある意味では「完成された」箱だった。
コンクリートの壁。鉄格子。洗面台。
世界から切り離されたこの静寂は、創作活動に集中するにはうってつけだ。
だが、道具がない。
カンバスも、絵筆も、愛するガスもない。
あるのは、支給された安っぽい灰色の囚人服と、僕自身の肉体だけ。
「……退屈だ」
僕はコンクリートの床に寝転がり、天井のシミを見つめた。
あの日、地下祭壇で警察に踏み込まれた時の記憶は曖昧だ。
夏希さんが泣き叫び、刑事たちが銃を構え、そして僕の意識はプツリと途切れた。
気がつけば、僕は「大量殺人鬼」として、この檻の中にいた。
世間では「平成の切り裂きジャック」だの「アート・キラー」だのと騒いでいるらしい。
愚かな大衆だ。僕の崇高な目的など、誰にも理解できない。
『……レン……描け……』
『……まだ……足りない……』
脳内で声がする。
神代先生だ。いや、彼を含む数千の「白い手」たちの合唱だ。
彼らは飢えている。
もっと美しいものを。もっと鮮烈な赤と白のコントラストを。
「わかっているよ。でも、素材がないんだ」
僕は自分の腕を見た。
手錠の跡が赤く残る、痩せた手首。
青白い皮膚の下で、静脈がトクトクと脈打っている。
……ああ、そうか。
灯台下暗しとはこのことだ。
最高の素材は、一番近くにあったじゃないか。
僕は囚人服の裾を強く引っ張り、ほつれた糸を一本引き抜いた。
丈夫な木綿糸だ。
次に、シャツのボタンを噛み砕く。
プラスチックの破片が口の中に広がる。舌を切らないように、鋭利に尖った欠片を選び出す。
即席の針と糸。
「ふふ、これでいい」
僕は左腕をまくり上げた。
浮き出た静脈。それは生命の樹形図だ。
この青いラインを、もっと際立たせたい。
皮膚というカンバスに、刺繍を施すように。
ブスリ。
尖ったプラスチック片を、手首の皮膚に突き立てる。
鋭い痛みが走る。
だが、それ以上に脳髄を駆け巡る快楽物質が、痛みを甘美な痺れへと変換する。
「あはっ……いい色だ」
滲み出る鮮血。
僕は糸を通した欠片で、血管を「縫い」始めた。
静脈の下に糸を通し、皮膚の上に引き上げる。
血管を浮き上がらせ、固定し、装飾する。
まるで、フランス刺繍のステッチのように丁寧に。
チク、チク、チク……。
独房の静寂に、肉を穿つ微かな音が響く。
痛い。痛いけれど、美しい。
僕の左腕は、見る見るうちにグロテスクで、しかし精緻なレース模様のような傷に覆われていく。
「見てくれ、神代先生。これが僕だ」
一時間後。
左腕全体が、血と糸と膨れ上がった血管で構成された、一つのオブジェに変貌していた。
出血で意識が朦朧とする。
視界が白く霞む。
その時、巡回の看守が鉄格子の前に立った。
「おい、84番。食事の時間だぞ……ひっ!?」
看守が悲鳴を上げ、持っていたトレーを取り落とした。
床に散らばる味噌汁とプラスチックの食器。
僕は鉄格子に縋り付き、血まみれの左腕を突き出した。
満面の笑みで、彼に問いかける。
「どうですか?最高傑作でしょう?僕自身が、作品になったんです」
看守は腰を抜かし、無線機に向かって絶叫した。
「医務官!医務官を呼べ!84番が、自分の腕を……!」
サイレンが鳴り響く。
騒がしくなる廊下。
僕は薄れゆく意識の中で、恍惚と笑い続けた。
ああ、なんて素晴らしいフィナーレだ。
***
(視点:三島雪乃)
取調室の空気は、凍てつくように冷たかった。
マジックミラー越しに見る黒崎蓮は、両腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、拘束衣を着せられていた。
鎮静剤を打たれているはずなのに、その瞳は爛々と輝き、虚空を見つめている。
「……完全に、狂ってるわね」
隣に立つ同僚が、嫌悪感を隠さずに言った。
私は答えず、ポケットの中の水晶を握りしめた。
亡き妹の形見。
妹は言っていた。『水晶はね、見えないものを映すレンズなの』と。
藤堂刑事は、あの廃ホテルで行方不明になった。
遺体すら見つかっていない。
現場の地下シュートからは、数えきれないほどの人骨と、ガラス細工のように加工された数名の女性の遺体が発見された。
夏希というライターは奇跡的に保護されたが、精神崩壊を起こし、今は閉鎖病棟で「白い手が来る」と怯え続けている。
この事件を、ただの猟奇殺人として終わらせてはいけない。
藤堂の仇を討ち、真実を暴くには、オカルトだろうが何だろうが利用する。
「少し、二人きりにして」
「え?でも係長、奴は危険です」
「拘束されてるわ。それに、聞きたいことがあるの」
私は同僚を追い出し、取調室に入った。
鉄の扉が閉まる重い音。
黒崎蓮が、ゆっくりと首を巡らせて私を見た。
「やあ、刑事さん。僕の作品を見てくれましたか?」
彼の声は穏やかだった。
まるで、個展の感想を聞く画家のようだ。
私は椅子に座り、机の上に水晶を置いた。
透明な石が、部屋の蛍光灯を反射する。
「黒崎蓮。……いいえ、そこにいるのは誰?」
私は水晶を通して、彼の姿を覗き込んだ。
妹の教え通り、視点をずらす。
肉体を見るのではなく、その輪郭にまとわりつく「気配」を見るように。
すると、視界が歪んだ。
水晶の中に映ったのは、黒崎蓮の顔ではなかった。
彼の肩、頭、胸に、無数の「白い手」が食い込んでいる。
いや、違う。
彼の中から「生えている」のだ。
そして、彼自身の顔の上に、もう一つ、古風な丸眼鏡をかけた冷徹な男の顔が重なってみえた。
『……ほう。見えるのか、女』
黒崎の唇が動いたが、聞こえた声は彼のものではなかった。
低く、ノイズ混じりの、複数の人間が同時に喋っているような声。
「あなたが、神代巖ね」
私は震える声を押し殺して言った。
夏希が持っていた日記から判明した、70年前の元凶。
黒崎(神代)は、ニヤリと笑った。
『そうだ。そして我々は多数だ』
「蓮を操って、何をしたかったの?」
『操った?誤解だな。彼は最高の器だったよ』
彼は身を乗り出した。拘束衣のベルトが軋む。
『彼は幼い頃、母親の自殺を目撃した。あの時、我々はすでに彼に種を植え付けていたのだ。死を恐怖ではなく、美として刷り込んだ。彼はね、我々の操り人形ではない。我々が丹精込めて育て上げた、最高傑作の「苗床」なのだよ』
「……あの子の人生を、最初から弄んでいたって言うの?」
怒りで目の前が赤くなる。
妹の死も、藤堂の失踪も、全てこいつらの戯れだったのか。
『弄ぶとは失礼な。これは進化だ。肉体を捨て、純粋な精神体として永遠に美を保存する。私は彼に、そのための手助けをしてやったに過ぎない』
「ふざけるな!」
私は机を叩いて立ち上がった。
水晶がカタカタと震える。
「死刑判決が出たわ。あなたはもうすぐ死ぬ。肉体が滅びれば、あなたたち怨霊も消滅するはずよ」
黒崎(神代)は、ケタケタと笑った。
『死?それこそが我々の望みだ。肉という檻が壊れれば、我々は完全に自由になる。……楽しみにしておけ、刑事。この国の地下水脈には、すでに我々の根が張り巡らされている』
彼は大きく口を開け、天井を仰いだ。
その口の奥から、白い霧のようなものが漏れ出しているのが見えた。
『展覧会は、まだ始まったばかりだ』
私は恐怖に立ち尽くした。
こいつを殺しても、終わらない。
むしろ、処刑こそが、彼らの計画の最終段階なのではないか?




