第8話:狂気の美学、絶対零度の保存術
(視点:滝川夏希)
カビと、古いインクの匂いが鼻をつく。
私はホテルの書斎の奥、本棚の裏に隠されていた狭い小部屋に身を潜めていた。
懐中電灯の明かりだけが頼りだ。
心臓が早鐘を打っている。
もし今、あの美しい顔をした狂気のオーナーに見つかったら……。
震える手で、見つけたばかりの革表紙の手帳を開く。
表紙には、金箔が剥げ落ちた文字で『実験記録1945・神代巖』と記されていた。
ページをめくる。
走り書きのような筆跡は、最初は理性的だった。
『○月×日。被験者の精神状態は安定。魂の質量を計測する試みは順調だ』
『肉体は魂の牢獄である。死とは解放であり、芸術的な昇華だ』
読み進めるうちに、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走った。
神代巖。戦時中、この場所にあった医療施設で院長を務めていた男。
彼は患者を治療していたのではない。
「いかに美しく死なせるか」という実験を繰り返していたのだ。
記述は次第に狂気を帯びていく。
『○月△日。あの子たちの悲鳴は、なんと甘美な音楽だろう。シュートへ滑り落ちる際の、骨が軋む音。これぞシンフォニーだ』
『「白い手」が見える。彼らは私の同志だ。彼らが手伝ってくれる』
そして、最後の日付。1945年8月14日。
終戦の前日だ。
『明日、戦争が終わるらしい。だが、私の芸術を凡俗な連中に汚させるわけにはいかない』
『今夜、全てを完成させる。残った患者23名と、職員たち。全員で地下の楽園へ往くのだ』
『魂を抽出した純粋な死体のみが、永遠に残る』
手帳の最後は、赤黒いシミで汚れていて読めなかった。
血だ。
彼はここで、集団自殺という名の虐殺を行い、自らも命を絶った。
「嘘でしょう……」
私は口元を押さえた。
黒崎さんが語っていた「死の美学」。
それは彼オリジナルの思想ではなかった。
この土地に染み付いた、70年前の亡霊の妄執そのものだ。
黒崎さんは、ただの建築家じゃない。
あの「神代」という男の意志を継ぐ器として、選ばれてしまったんだ。
その時。
廊下の方から、コツ、コツ、という足音が聞こえた。
優雅で、リズムの整った足音。
黒崎さんだ。
「夏希さん?どこに隠れているんですか?」
壁越しに聞こえる声は、恋人に語りかけるように甘く、優しかった。
「かくれんぼは終わりですよ。……あなたに見せたいものがあるんです」
私は手帳を抱きしめ、息を殺した。
逃げなきゃ。
でも、出口は彼が来る方向にある。
足音が近づいてくる。
コツ、コツ、コツ……。
そして、書斎のドアノブがゆっくりと回る音が、雷鳴のように響いた。
ガチャリ。
「……みーつけた」
ドアの隙間から差し込んだ光が、私の顔を照らす。
逆光の中に立つ黒崎さんのシルエット。
その背後に、無数の「白い影」がゆらゆらと揺れているのが見えた。
***
(視点:三島雪乃)
「突入!!」
私の号令と共に、特殊班の隊員たちがバリケードを破り、ホテルのエントランスへ雪崩れ込んだ。
サイレンの音が森の静寂を引き裂く。
だが、その勇ましい光景は、一歩足を踏み入れた瞬間に異様なものへと変貌した。
「な、なんだここは……!」
先頭を走っていた隊員が、悲鳴を上げて立ち止まる。
ロビーの空間が、歪んでいる。
直線であるはずの柱が飴細工のように曲がり、床が波打っているように見えた。
平衡感覚が狂う。
「怯むな!確保だ!」
私は叫んだが、自分の声が水中にいるように籠もって聞こえた。
「無線が……繋がりません!ノイズが酷くて!」
「おい、壁が!壁から何か出てるぞ!」
部下の報告に目を向けると、剥がれかけた壁紙の隙間から、白い煙のようなものが滲み出し、人の手の形をとって蠢いていた。
一人の隊員が、その手に足首を掴まれ、派手に転倒する。
「うわあああ!放せ!冷たい!」
「しっかりしろ!幻覚よ!」
私は拳銃を構え、その「白い手」に向けて発砲した。
パン!
乾いた銃声。しかし弾丸は虚空を突き抜け、壁に穴を開けただけだった。
物理的な攻撃が通じない。
「係長、ここはマズいです」
藤堂が私の袖を引いた。
彼の顔は蒼白で、脂汗が滝のように流れている。
「霊道の向きが、めちゃくちゃだ。空間そのものが、我々を『消化』しようとしてる」
「消化って……どういうことよ」
「この建物は巨大な胃袋なんです。入ってきた異物を、恐怖で溶かして喰らおうとしてる。……核を、核を壊さないと」
藤堂はブツブツと呟きながら、ふらりと隊列を離れた。
「藤堂!どこへ行くの!」
「法則がわかりました。この建物の血管……地下へ続く『道』が」
彼は何かに憑かれたような目で、厨房の奥へと走っていく。
「待ちなさい!単独行動は許可してないわ!」
私が追いかけようとした瞬間、ロビーのシャンデリアが轟音と共に落下した。
ガシャーン!!
クリスタルの破片が飛び散り、私と藤堂の間の道を分断する。
「藤堂!!」
埃の向こう側で、藤堂が振り返った。
その背後、暗闇の奥から、白衣を着た男のような影がぬらりと立ち上がり、彼を包み込もうとしていた。
「係長……逃げてください。奴は、生者と死者の境界を消そうとしている……」
それが、彼の最後の言葉だった。
次の瞬間、藤堂の体は闇に引きずり込まれるようにして、視界から消えた。
「嘘……」
私は唇を噛み締めた。
こんな非科学的なことがあってたまるか。
妹の時と同じだ。
目に見えない何かが、また私の大事な人を奪っていく。
「許さない……黒崎蓮、絶対に捕まえてやる」
私は恐怖を怒りで塗りつぶし、シャンデリアの残骸を乗り越えた。
もう、法の手続きなどどうでもいい。
これは戦争だ。生者と、この土地に巣食う死者たちとの。




